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October 2004

October 30, 2004

ヒトがこの世に動く理由

英語でコメント返ってきて、「しまった!・・・」と思った。うーん慣れないコトするもんじゃないなぁ。
いやいや冗談☆サンキューきょうこ☆

『損失、例えば近しい人を失う”経験”や、何かとても大事で意味深い”経験”。それだけが、限りある生、つまり人生への意識をハッキリと開かせることができる。』

そんな感じかな?合ってる?
ごめん、これも文章を読む俺の解釈。気に入らんかったら訂正をば。

だけど、大いに同意できる。
生物としての譲れないラインである”生”。それが法律や良心によって当たり前のように大事に守られている世界に生まれてきて、生が脅かされるような実体験をしない限り目が覚めないのかもしれない。
生きてるってことは、決して当たり前じゃない。それが与えられてるうちは、生かされてるも同然だ。

しかし、それだけじゃ解決できない問題がある。
意図的にそれを発生させたい場合だ。

人を集めて何かを興す、実施する場合、つまり会社経営や団体運営等の場合、
意図的にでもヒトを動かさなければならない。

HBRにもかつてBクラス社員の活用法といった記事が掲載されていたが、
時には本人の意思を上から変更させ組織全体を改変し整合性を取らなければならない場合がある。
それは、企業体という組織が社会環境において生き残る為に必要な変革であり、変わりゆく環境に在るならば必須の条件だ。

その際に、全ての人材に生命の危機を感じさせるわけにもいくまい。

信じたい。
人間は、”生”以外のトコロで何か使命たるモノを感じることができる生物だと。

ヒトのモチベーションを上げさせる方法として、給料や地位等を材料として成果主義や能力主義の組織制度を取り入れている企業は多いと聞く。
だが、ヒトが最も重要なファクターとなりつつある知識経済下では、もはや物的欲求が支配的でない世の中では、それだけではあるまい。
「やりがい」や、「協働」といったキーワードがよく現れてくるように、ヒトを動かす何か新しい方法論が求められていると、私は考えている。
それを実現できた企業こそが、これからの新時代を生き抜く組織であると、信じている。

もはや、金とモノの時代じゃない。

ヒトを動かす何か。
それがこれからの俺の社会生活における最も重要なテーマの一つだ。

今、勉強会を企画している。
テーマは、組織とヒトのモチベーション。
ケーススタディにするつもりだが、もちろん企画倒れになる可能性も大。
でも、もし実施することができたら、『ヒトと組織』に興味がある人達と是非討議してみたい。

  

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勉強会

まあかく言う俺も、明日久々にロジカルシンキングの勉強会に行ってみる。
さて、どんな展開になるのやら。

「論理的思考が正しいことを論理的に説明して下さい」
って質問してみようかな。
 

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社会への期待と希望

アッツイこめんと頂き嬉しくなってもう一言。(thanxそば☆)

論理論理と、社会人を目指す学生の間で余りにも過剰注視されている気がする。

もちろん時間と空間に立脚する序列や因果を根拠とした理論構築には私も賛成だが、
所謂ロジカルシンキングで叫ばれるトコロの論理的思考とやらにはどうも無感情な単なるツール的色が鼻につく。

本の中で述べられている”論理的思考”そのものが世の中において”論理的に”真実であるコトまで述べている著書があるだろうか。
全ての本に目を通したワケではないが、多分無い。
それらは多分、哲学・心理学・認知科学にまで掘り下げなければならないからだ。

もちろん、取り出せたデータが”正しい”という前提の下であれば、数的分析ツールやチャートは有効に働くだろう。
けれど、世の中には「データを取り出す」という考え方すら無縁に動いている部分だってあるんだ。

私が現時点でビジネス世界に見ているのは、そういった”めっちゃあっついもの”(byそば)だ。


そう述べる私の意見は、地方公共団体での研究活動や海外の大学院に所属した留学経験からきている。

自分の理屈、論理なんて通じなかった。何一つ。
もちろんコミュニケーションのための情報処理や項目整理は常に行う。それはあくまでもう一段高次の処理だ。
問題はその上で現実をどう見るか、だ。

無力だった。とても。

結局ここでの問題を解決したのは、ヒトのつながり、ヒトの動きだった。
俺が貢献できたのは、その想いをヒトづてに繋げ、また自分の想いをぶつけていったことだけ。
そうしているうちに、目に見える範囲でヒトが動き出し、社会活動が動いた。
まるで生きているかの如く流動性を持ち、社会が動く。すごいスケールだった。

これが、社会活動だろう。
机の上じゃあない。

問題を処理し必要な情報をつなげていくことが論理性であるとするならば、
ヒトの気持ち、感情、精神を主体とするべきだ。

見せ掛けのロジックなんて役に立たない。
ヒトはそんなんでくくれるほど単純じゃない。そう願いたい。

もちろん先人たちは、現実での社会経験から得た教訓を誰でも使えるようにある程度の規範性を持たせ学問として体系立ててきたのだろうけど、最も大事な要素が欠けていて、まがりなりにも日本教育を受けてきた自分だからこそとてもそれが満足できるものではないと、今こそ感じる。


私が築いてきた論理性など、所詮今まで生きてきた世界で私の心が積み上げた根拠の無い”自分流考え方”に過ぎない。
それがある程度生きる世界を共有している範囲内では大きなズレとなって現れることが無いから、偉そうに述べる意見に対して反駁されないだけだ。

もっと言うなら、世の中で言われるところの論理的とは、大部分の人間が頭の中に持ち得る「意味論的システムモデル」にある程度合致し得るに過ぎない一構造に過ぎないと、私は思う。(参:ソフトシステム方法論におけるタイポロジー)

そういうことだ。

考えてみて欲しい。

失恋に髪を振り乱さんばかりに泣いている女性を自分の論理的トークで慰められるか?
コンクールに負け机に突っ伏し号泣している人を自分の論理的トークで立ち直させられるか?
ナニかを言われ怒り心頭のおっちゃんを論理的トークで静められるか?
アンケートをお願いしに自宅に伺った時にただ”帰れ!”と言われた相手に論理的トークで納得させることができるか?

そういう場面で貴方はどんな言葉・態度を用いる?

最も愚かな類の人でなければ、自分の経験から何かを分かりやすく言い立てるよりも、まず相手の話を聞こうとするのでないだろうか。
だって、その人がどんな思いをもってどんな考え方で現実に起こった出来事に対して今見られる行動を起こしているかが、分かんないんだから。

ビジネスだって、一緒じゃないん?

ヒトが想い、興し、動き、創っていくんだろ。

一流経営者に、論理的方向性だけ述べる覚めたオッサンおばちゃん見ないだろ。
アツイ想いを語り、それを企業倫理として組織全体で共有し、ヒトが突き進んでいくからこそ強いんだろ。
それは、ヒトの気持ちだからだと思う。

個人のアツイ想いに、とってつけたような理屈なんて要らない。
それが大勢に共感されるってのは、人間の本質である社会への好奇心を駆り立てる、俺らの心に確かにあるシステムモデルがその原理ともする向上の軸に沿って、疼く、ってことだろ。

だから今、俺は社会へ希望が持てる。
自分が考え付く論理を遥かに超えたトコロから、少なくとも論理に先行する”気持ち”で感じ取れるナニかを求めて。

だから、表向きの理屈なんていらない。
あつく、いこーや。

  

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October 29, 2004

ヒトが創るヒトの考え方とヒトの世界

クリティカルシンキングとかロジカルシンキングとか。
付けたモン勝ちの名前が色々聞こえてくるけど、どうにもしっくりこない。

論理的思考ってゆったって、”論理”はいっぱいある。
前提として絶対的な枠組みってのは時空間くらいで、それ以外はヒトが考え出した考え方だ。

以前も引用したように、
『人間の行動の領域における客観化とは、常識的には、価値判断が主観的意見として恣意的で考えなしに受け入れられることではなく、その意味がより高次の価値体系に照らして検証されたことによって受け入れられる、という程度の意味でしかありえない[ハンス・ウルリッヒ]』
というのは俺も同意するところだ。

さらに、系統立てられて作り込まれた数学の世界ならまだしも、
ビジネス等現実世界の問題を扱う場合に、世界で最も非合理的な生き物であるヒトが考え出した思考構造がどれほど有効だろうと言うのだろう。

大多数の思考構造にオーバーラップするが故にあたかもそれが正しいかの如く受け入れられているが、それをもう一つ上位の価値体系から眺めれば脆弱性を感じ得ない。

そんな折、出会った言葉が「integrated thinking」。
ビビっときた。

アプリオリとも言える「序列」の考え方を機軸とし、
問題を包括的に(comprehensively)範囲指定し、あらゆる角度からのアプローチと蓄積、検証を行う。
その際問題なのは”妥当性”(legitimacy)であり、どんな構造思考が適切化は適宜変わる。

考え方の一つでしかない”論理性”には決して捉われない、そんな考え方が必要ではないかと思う。
だって、非合理とその時は判断されるヒトの気持ちを合理的に判断し意思決定しなければならないのだから。

所詮は全て人間の「解釈」次第。

何かそれに従えば非難されない絶対的な基準を、安定を求めるヒトの思考は必要とするのかもしれない。
それに従えば、何かあった時、自分のせいにされないで済む。

けど、無いんだ。そんなもん。

それより、無理に或る枠組みに当てはめようとする方が怖い。
歪曲された理解の向こうに幸せは存在しない。

全ては自分の責任。
自分の解釈が、唯一の自分にとっての真実であるこの世界を、構築する。
だから、判断するのも考えるのも自分。
今見ている世界も全て自分が創り出したモノ。

もっと自分を信じればいい。
効率性に捉われ均質を是とするツマンナイ領域にいる必要なんてない。

その時その時、自分が正しいと”信じる”考え方で進めていけばいい。
ただし、社会の一員として生きる以上ある程度以上の逸脱は許されない。
あくまで自分が生きる世界の潮流を感じ見極め、その中で自分の立ち位置を求めていけばいい。

何が大事で何が正しいのか。
もっともっと自分を大事に見つめて育てていく必要があると思う。

  

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October 27, 2004

考えたのに日の目を見なかった質問文

My interest is about individual behavior on their perception, feeling, and legitimacy.

When do people learn something new??
When do people change their perception and change their behavior sequentially??

Cannot they learn from just information which is not directly experienced and acquired??

For example, I work and research in Tokai area where some experts predict big earthquakes will inevitably occur in 20 or 30 years. After people there experienced earthquake the intensity was 3 at the beginning of last month, many people lashed to town office to get information how to improve their house strength. However, their behaviors haven’t changed after Niigata earthquake this time...

Prof. Edger Shine says the only factor which drives people to learn is anxiety toward life. But I cannot completely agree with this idea.
Something more joyful, ex. pleasure or wish, should be that one, I think.
On reconsidering the matter, of course those factors are the same ones as he says. But…

When do people learn something new??
When do people change their perception??

If I can find an answer to this question, it will become great help to make models of growing human networks.

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続-分かりにくいコメント

もっと言うなら、「すご~い」しか言えないレポーターは自分の気持ちを見つめる訓練が出来てないんだとも、思う。

”すごい”と思うのは、過去に見たモノとか頭に想像してたモノと無意識に比較して優劣をつけてるが故のセリフだろうから、それを表現できれば”どうすごいのか”の説明になる。
例えば、「前に同国の別地域の景色を見た時は~だったのに、ここは~が~になってますね!!」ってな感じ。(長いって??)

要するに、自分の内部に自分が何故そう感じるのかの裏付けとなる事象を瞬時に客観的に探し出す訳だ。
絶対に理由がある。今までの経験その他もろもろの要素があって今の自分があるんだから。

それに関しても、そごうがコメントくれたように、すごいと思う内容はヒトそれぞれ。
あるヒトにとっての感動は、別のヒトには大した事無いって場合も多々ある。
だからこそ、自分がすごいと感じる理由を端的に説明する必要があるんだ。

そうじゃないと、自分の”気持ち”なんて理解されない。

さらに言うなら、
何を喋るにしても一言自分がそう思う理由をキチンと付け加えて喋れる日本人があまりにも少ない。
地域のワークショップなんか行くと酷いもんだ。主張するだけで根拠がついてこない。

これは、俺が常に心掛けてることの一つ。
たった一言でもいい。何故そう考えたのかを一言添える。

そうしないと、他人を説得できないから。それ以前に話が通じないから。翻って誤解を生むから。
抽象論を熱弁振るったところで、解釈過程・事象価値判断要素がバックグラウンドや経験によって異なる他人には、自身の思考回路を前提とした話は根底を異にするという意味で意味を成さないからだ。

解釈に拠る以外は絶対的な「過去の事実」を引き合いに出せば、
今述べてることがどんな具体的な事象に基づくかが想像してもらえて、
別の解釈も可能となりうる誤解を回避することができる。

そうして、本来思考が異なる他人同士が、話をする上での前提を予め築き、コミュニケーションが可能となる。

単一民族が狭い島国で生活する上では、互いに前提を確かめる必要がない。
そうやって文化を育んできたツケが、この社会国際化に際して回ってきてる。

教育の問題だろうと俺は思う。
自分の意見を”ハッキリ”述べる練習を、今こそ積むべきだ。

  

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気を遣えるヒトと遣えないヒト

この前初めて『カプセルホテル』に泊まった。
¥4,100はちょいと高いけど他満室やししゃーない。ラブホ泊まる相手も無く。。。

いや、結構快適。友達と来たい。
フェリー旅行で船内で夜を過ごすのに似てる。
サウナ入って、寝巻きでソファーに横んなって漫画読んで。
マッサージもあれば、アメニティも揃ってる。

カプセルも割と広い。
座っても頭余裕あるし、横幅もある。
各個室装備のテレビはエロビもやってたけどティッシュも無いのにどないせっちゅーねん。
まあともかく快適だった。

ただ、なぁ。
イビキがめっちゃ聞こえてくんねん。
カプセル入り口がスダレだから音ダダ漏れだし。
お父さん方お疲れのようで。こっちは寝られん。。。

さらに朝がいかん。
サラリーマンが5時6時台から起き出すんだけど、
そこら中からアラームが聞こえてくんの。

この辺が日本文化なんかなぁ。
カナダアメリカで5、6個ユースに泊まったけど、カプセルなんて皆無。
大体ドームで一部屋に二段ベッドが2つ3つある部屋。

そーゆー場合、他人にめっちゃ気を遣う。
夜12時過ぎて部屋戻る時は灯りつけらんないから、ペンライトで全部済ます。
朝も音ならすアラームなんてありえないから、携帯のバイブで起きる。
音立てて起こしちゃったら”sorry”ってゆうし、”it's ok”って返す。

同部屋ってのはキッカケの一つだから、ベッドに座って荷物片付けながら今日回ったところや旅の思い出、自分の仕事や勉強とかを自然に語り合ったりする。
新しい友達と会えたことを素直に当然に喜び、異なる価値観に興味を持ち交流を図ろうとする。
外国人はそれができる。

なのに、日本人は他人に上手く気を遣うのがすんごくヘタだ。

と俺は思う。
だから、カプセルなんだ。

他人を気にしないでイイ、気にせずくつろげる最低限の個人スペースを確保する。
部屋に一人でテレビを見ながら夜を過ごす。
さらに個室を理由にアラームだってかける。

そら、ビジネスマンにそんな余裕は無いのかもしれん。
けど、もし日本のビジネスマンがそれをゆっても俺には言い訳にしか聞こえない。
だって時間に余裕があってもあんたらコミュニケーションしないじゃん。

ホテルの真ん中にリクライニングソファーがいっぱい置いてあるロビーがあんだけど、
誰一人喋ってない。「お静かに」って張り紙があるわけでもない。テレビを見つめながらぼーっとしてる。

外国でユースに泊まれば、共有ダイニングやキッチンで必ず友達ができる。

もちろん、カプセルホテルとユースホステルを一概には比べられない。客層だって違う。
けど、簡易宿泊施設と捉えて、軽く一泊する間に何をするかってことを考えると、
欧米と日本では過ごし方が明らかに違う気がする。

日本人の閉鎖性をすごく感じる。
そしてそれがすごく寂しい。

んで最期に一つ言いたい。
遊びでサウナ・カプセルにくんな~~。
朝10時頃起き出しても、まだロビーのソファーにいーっぱいご年配がいんの。
明らかに仕事してない。
レジャーで泊まりに来てんだろな。
いや、もちろんそれは個人の自由なんだけど、他所の地からやってきてるヒトのベッドを取らんといてくれ。
もちっと遅かったら部屋無かったとこやねん。

まあなんにせよ日本の文化がもちっと明るく開放的なモノになりますように。。。

  

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October 24, 2004

震度6強!?

被害に遭われた方々。
心からご冥福お祈り申し上げます。

まったく今年はどうなってんだ。

でもあえて一つ言いたい。

なんで地震が起きてから防災グッズ買うの?買っとけよ!予め!
じゃなきゃ文句いうなよ。

ただでさえ、種種の異常地殻変動から広域大規模地震の発生が危惧されてる現在。
声を嗄らして防災力向上を叫んでる人だっているんだ。
実際に被害に遭うまで耳も貸さないクセに、いざ被害に遭うと行政の非難ばっかし。

この国民性だけはなぁ。
どうしたもんか。。。

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苦労知らず・・・?

久々の(?)土曜出勤でして。終電まで頑張ってきたんだけど。
金曜の夜にそれをボヤイたら先輩に言われた。
「カッキィってホンマに苦労知らずやなぁ」

。。。

そおか!?そおなのか!?
俺ってばそーゆー風に見えるのか?

”ホンマに”って言うってことは、前からそう思ってたってことやん。

そういや思い出した。
就活の面接でも言われたことあったわ。
「君って挫折とかしたことあんの??」

。。。

いやそらあるよ!
えーえーナンボでも語りますよ。枚挙に暇が無いですよ。

俺だって多感な頃は、何もできない自分と周りの環境にアタマが真っ白になって無力感に支配されて人知れず部屋の中一人で涙を浮かべてたコトくらいあるさ。
どんな理屈も説得も受け付けず背中を見せてケツ巻くって逃げ出したこともあるさ。

でも、そーゆう経験してみて、
自分がナニかしなきゃ進まない、進まなきゃ終わらない、終わらなきゃ困る、ってんならやるしかない、
って気付くわけじゃん。
ぐだぐだゆったって、状況を恨んでみたって、何一つ好転しやしない。
運だって引き寄せるのは前向きさだ。

二度とあんな惨めな思いするのはイヤだ、って思うから変われるんじゃん。
それくらいのプライドは俺にだってある。

そもそも無駄な時間なんて、世の中には、
喫茶店で便所に入ろうとしたらオッサンに割り込まれてオイオイナゲーヨって思いながらウンコ済ませて出てくるのをイライラしながら不条理さを感じながら無常にも何もすることなく突っ立って待つ時間、
くらいしかないんだしさ。

いやそら社会人の方々に言わせれば、
「そんなもんナンボでもあるわ!」って言われそうだけど、
それって結局巡り巡ってナンの為になるかってところの、どこまで巡らせて考えてみるかの問題じゃないんかな。

メンドクサクたって結局自分の為になることって多いと思う。

だから、どんな状況になったって、
”自分が”満足したきゃ”自分で”何とかするしかないって思って、
前向きに取り組んでいくようにしてる。
できるだけ無意味にクサらないように心掛けてる。

うーん、苦労しらずか。。。
そらソンしてるなぁ。

  

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October 23, 2004

分かりにくいコメント-料理番組しかり

テレビで観光スポット巡るレポーターが行く先々で
「うわぁ~」「きれ~い」「すご~い」「かんどう~」
の4つしか言えてないのに気付いて、ものすごげんなりした。

ナニあれ??

”どう”綺麗なのか、
”どう”すごいのか、
”どう”感動したのか、
その場にいない視聴者に何を”どう”説明しようとしてくれてんのか。

全く持って不明。ナニが言いたいのか不明。
アレはナニ?プロデューサーに言わされてんの?

いやオマエが感動したのは分かったから。しつこい程分かったから。
だけど、オマエが具体的にどんなコトに感動する人間なのかも分からんのに、
どうやって現場の感動を感じ取れっちゅーねん。

なんで自分が”どう”感じたかを”自分なりに”端的に表現できんやつがメディアに登場してんのか。。。

あーゆー輩がチャンネル変える原因なんだけど。
  

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自分なりの、思い

「そんなんただの理想じゃん」とか言うのは勝手だけど、

理想”すらも”胸張って語る度胸も無いクセに、
理想を実現させる努力もしてみないクセに、
正面から取り組んで傷ついてみる度胸も無いクセに、

理想を言葉にして表現できる奴を馬鹿にすんなや。
岩陰に隠れて安全なトコから述べるのを止めて、表に出てきて、自分を直に晒す度胸、オマエにあるんか。

仮にアリキタリに聞こえる理想を語るのが恥ずかしいなら、
自分にしか言えない言葉を探してみればいい。
見せ掛けの言葉を自分の経験に無意識に当てはめて既存の枠に縛られて自分を大切に見てあげることすらできないくらいなら、そのまま一生じっと大人しくしとけや。

んで、
自分の物差しで全てを判断すんなや。

ヒトの経験からも学べとは言わんけど、
それは想像力の問題だと思う。
楽観的だろうが希望を頭の中に描ける技術。

しかも、”自分なり”に。

与えられる言葉に乗ってる情報を頭で処理するだけで世の中知った気になってつべこべ言うのが、どれほど無味乾燥で無価値に見えることか。

どうしてもっと”自分なり”を大事にしない?
どうしてもっと的確な”言葉”を想像してみない?

”感じる”トコロを共有してみようや。
自分で選んだ言葉だから相手にそのまま伝わるわけじゃないかもしらんけど、
それを諦めたら一生誰にも分かってもらえない。

「自分の気持ちが分かってもらえるハズない」とか言う前に、
自分の言葉を選んでみたらええやん。
少なくとも、気持ちを探して表現しようって思いは伝わるって。

どうしてこうも、「もういいや」とか「もうええって」って即諦めの奴が多いんかなぁ。
めんどくさいから?
自分に”近い”奴とだけ仲良くしとけば事足りるから?

それもこれも東京砂漠か。
寂しいもんだ。

  

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October 20, 2004

言葉に紡がれた世界

大好きな日本人作家が2人いる。
森博嗣、真保裕一だ。

森博嗣には、想像限界を遥かに超え文章を読んでようやく指先が辿り着けるほど数的に精巧に創り込まれた世界と、非日常とも言える淡い恋心を。
真保裕一には、現在の自身の生活からは及びも着かない国家・世界スケールの展望から繰り広げられるダイナミズムと言葉裏に存在する筋に沿って二転三転する展開と収束を。

求めて俺は2人の本を読む。

そんな、描く世界が異なる両者に共通するのは、
『人間味に溢れたストーリィ』であるということ。

一言で言えば登場人物の魅力、なんだけど。
設えられた世界を背景に展開するのはヒトの思考であり行動になる。
未だ見ぬ観念や着想、具体的には世界観や展望、構造を言葉を通じて感得できることが、何よりも心地いい。
その大元は、可能性への期待と希望なのかもしれない。

最も好きな書もあるけれど、それはおいといて、
最近、真保裕一の「ボーダーライン」を読んだ。
読み終わったら涙が一筋頬を伝ってた。
俺がこの本に見たテーマは親子。

俺は一つの人生の岐路を半年後に控えて将来を想像し心を固めていくに当り、
概して漠然ではあるけれど家族を持つことも頭に浮かんできたりする。
受動系なのは能動的では無いが故。決して前向きに望むわけではない。
けど、俺は子供が好きだし、具体的な姿は置いといても幸せな家族に憧れもする。

そんな折、上記書を読んで物事を”解釈”するヒトの心について考えさせられた。

赤子のように無邪気に笑い叱責には素直な涙で反応しながらも息をするように父親さえ撃てる彼。

もしも本当に、身体に障害を持って生まれてくる子供のように、精神に障害を持って子供が生まれてき得るとしたら。すなわち、赤ん坊が真っ白には生まれてこなかったとしたら。
世の中の風潮や環境、彼を取り巻く何モノのセイにすることすら叶わず、彼にとっての世界を構築する彼の『解釈』が世の中を支配する一般常識と異なるとしたら。
従って、欲望を抑え罪といった概念を教え生む教育すら彼には無効だとしたら。共通する解釈を持たず意思を交わすことが不可能だとしたら。

彼に罪はあるのだろうか。
そしてそんな子供を愛せるのだろうか。

世界は、決して全体にはなり得ない”大多数”が共有する観念の基に構成されている。当たり前のように少数派は抹殺される。生物としての最低条件である生存可能性を満たしていようが、”どんな形の”生存もあっていいハズなのに、「欲」を存在基底に持つ大多数の人間にとっては発展こそ全てでそれと流れを異にする概念は悪だと解釈・判断されそれがまかり通る。多数派によって。罪という考え方だって人間の創造だ。

生まれながらに、他の何モノのせいでもなく、彼自身がその観念から外れたところに位置するだけで、
彼に地球上で生きることを許さないこの世界とは、暴力にも似た虚構以外の何かでありえるんだろか。

かく言う俺もそんな規範と常識に飲まれその中での考え方を身につけており、
それと異なる存在への共生に対して自信がない。

異なる地域に出向こうが外国で生活しようが、
異なる文化に驚きはすれど、どんな人間にも共通してある何らかの「先験性」がある。

それが『解釈』できない場合。。。

親と子の絆とはいかなるものなんだろか。
まったくもって想像ができない。

自分が望む幸せ。
その姿はまだまだ霧に隠され全容をぼやかしたままだ。

  

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何よりも心地いい疲労感

全身が筋肉痛で咳するコトすら苦痛なんだけど。
とにもかくにも運動した次の日にそうなったことでちょっと安心。
まだまだ若いやん。
でも明日もっと酷なったらどうしよ。

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『解釈』に拠るところの自分の世界

ソフトシステム方法論とかナイサーの知覚-現実構成過程とか、
種々の引用を用いて俺が最近書いてたのは、科学における『解釈主義』や『構築主義』に依拠するモノにあたるようだ。

「自分にとっての世界とは自分が”認識”するところのものだ」ってやつ。

それに対置する『実証主義』てのは、そこに存在するモノを”客観的に”観察し”事実”を記述するものらしいが、
どうも俺は『解釈主義』のが好きみたいだ。

以前も書いたように、それは、客観性に対する疑問から来るものなんだけど。
客観性なんて、カントが言うところのアプリオリ(先験的)な考え方を一般的に共有してるが故にそう感じれるからに過ぎない。

だから、客観的データがどうの、なんて表層的な論理構造を振り回してあたかも自分が絶対的に正しいかの如く好き勝手述べてるヤツが嫌いだし、そいつの言うことは一概に受け入れる気にならない。
何故なら、それはソイツが正しいと信じ込んでるモノの考え方(主義)に依拠してるに過ぎないだけだから。

そんなコト言うなら時間空間概念から説明してみろっての。

どんな考え方をする人間にとって、それが正しいと”言える”のか。
どんな事を言いたいがために、それを”正しい”と前提に置いて話を進めるのか。

少しオーバーな表現かもしれないが、
少なくとも論拠とする考え方まで一つ掘り下げて説明してほしい。
「因果関係」だって「時間」概念を受け入れない以上は根拠(正当性)に欠けるんだから。

時々何となく話が食い違ってたり通じてなかったり感じるのは、そういったトコロに原因が或る。

俺のこの主張自体も一解釈に過ぎない。
アプリオリなモノが存在する、って考え方だってアプリオリだとすれば、その主張の根拠はどこにもない。

それは分かってる。
でも、だからこそ一つだけ思う。

ある程度の幅を持って柔軟に、謙虚に、そして広く何事も受け入れていこう。

こだわることは必要だ。
受け皿となる自分は自身の『解釈』によって、自分の世界を構築していく必要がある。
それこそが、世界における自己の確立という人間の究極目標に近づく必要条件だと思うから。

だけど、頑固だけはダメだと思う。
所詮世界は自分の『解釈』の産物だ。
だとすると、自分の常識なんて他人には通じなくて当たり前。

他人を否定する権利なんて誰にもない。
概念の押し売り・押し付けなんて迷惑この上ない。

世界はヒトの解釈が構築する。
ヒトが発展させてきた考え方の分だけ多様性を含み複雑さを増し、解釈することすら楽しめる。
そんな世界に興味が持てれば、より多くの解釈による”世界”を見て、自分を広げていけるハズだ。
まだ見ぬ世界に好奇心と希望を持って、この先も生きていけるハズだ。

世界で生きていけることはホントに面白いことだと思う。
より満足できる生を謳歌するためにも、そんな事を考えてみた。

  

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October 15, 2004

理想の組織と仲間・同僚

24を見終わった。
なんてまあラストのラストまでやきもきさせるドラマだこと。

使命感については以前書いた通り。
親子愛についてもジンとくる。

切に想ったのは、『仲間・同僚』、に関して。

正義は、各々あっていいと思う。
愛国心だけが正当化されていいハズない。誰もそれが”一番”正しいなんて証明できない。
国家の繁栄と属する個人の幸福の関連は複雑な議論が多いからそっちに譲るとして。
中には自身の保身が最重要で権力構造が支配的なシステム中で動く限りにおいては一般に言うところのコウモリも無理はない。

誰もそれを否定できやしない。証明なんてもってのほかだ。

だからこそ、
「共に」働く『仲間・同僚』は志を同じくする者達がいい。
理不尽、と、自分が認識してしまう道理を礎とする人とは、働けても足を引っ張り合うだけだ。

属する組織をこれから選ぼうとしている人へ。
組織活動内容、将来性、云々も重要だが、そこにいる人達が”どんな人”なのかをしっかり認識してほしい。

どんな事に怒りを覚えるヒトなのか。
どんな将来を望ましいとするヒトなのか。
そのヒトにとっての正義、優先事項とはナンなのか。

見えやすい技術、数字、では計りようのない、「人間らしさ」の部分が最も大事だと、俺は思う。


ただ、それだけでは絶対に出てくる、リスクの問題がある。

同種の集まりからは見えない側面に対する脆弱性だ。
異なる価値観が多いほどより多面性のあるモノの見方が可能になる。
イエスマンが嫌いな人がよく言うのは、自分と違う意見だからこそ参考になる、という文句。

これももちろん組織活動を支える重要な要素。
多様性を保持して初めて総体としての活動が維持されるのは、生物の進化を見る限り明らかだ。


そこで、
この相対する、一見矛盾する上述の2つの側面を統括し得るのが、
『リーダー』だ。

より多くの視点を内に持ち、個人ではなく組織の生存を第一に考え、
その為に新たな境界を創り出し選択肢を生み出して、
異質要素によるコラボレーションを実現していく。

それこそが、『リーダーシップ』であると思う。
部分と全体の合目的性の構造を把握し追及できるヒトでなければ、異種混合など達成できやしない。
全ての部分に対して納得を配することができる存在。
それこそが、マネジャーだ。


組織に属し働ける、活動できるというのは素晴らしいことだと思う。
一人ではできないことを、知恵や資源を結集し実現できる。
共に動くことの連帯感を、人間は幸せだと感じることができる。

でも、それは最低限の条件が揃っていればの話。

志を共に出来る仲間。
その中でも意見を戦わせることのできる多様な人材。
それらを許容し統括できるリーダー。

この条件を兼ね備えた組織に属することこそが、
幸せな、生活を営んでいける条件であると、私は思う。

  

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October 13, 2004

所詮世界なんて俺らの認識と等価

唯、我々の感覚器官にとっての経験世界は機械論的規則に従って継時発展していると見なさざるを得ない、とするのはあくまでも我々の方の事情である。しかも、これが避け難い事情であるのは、言語を操る我々と、我々にとっての感覚器官の特殊さによる。
(松野孝一郎)
※機械論:時間を前提とし、その時間の前後関係を参照することによって運動、変化の原因結果が判明するとする考え方。時間を無批判にそのまま受け入れる限り、この考え方に抗することは至難の業。

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当たり前と思ってて気付かない事

記録、歴史が成立するための必須の前提は、同時に起こることと、継起して起こることの区別である。この区別が成立していない限り、歴史はあり得ないことになる。(「内部観測」より)

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他人への理解と受容

局所的視野の下で現在形に働く「信号」は、それが何であれ、確たる物質基盤を伴う。
人間が外界からの信号を受け容れる時、その信号は五感を通じて受理される。

聴覚で受理される信号は空気振動としての音波、
視覚での信号は光としての電磁波、
嗅覚での信号は科学分子、
味覚での信号も科学分子、
触覚での信号は力学での機械的力、
のそれぞれによって担われる。
いずれもその物質基盤が鮮明であり、物理学を含む物質科学の各分野において個々の信号を形づくる物質構成因を明らかにすることが確かに叶う。(「内部観測」より)

こう考えると、
人間の“感覚”が如何に“システマティック”であり、
また逆にそれが個人固有の経験の蓄積によって育まれてきたが故に実に多様で時に或る個人にとっては不可解な反応や理解を“固有に生み出す”かが想像できる。

そう考えると、
他人と自分が違うのは当然であり、つまり違うように受け止め考えるのは当然であり、互いのそれは互いにとっては不合理でも自身にとっては合理であるため、その意味での理解と、許容を受容しようという気になれる。

あとは、好きか嫌いか。
それだけだ。

 

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October 12, 2004

2つの視点

政治家と政治学者。

先行する局所的視野と、行為の理論化に魅力を覚える全体視野。

いつの世も、
認識のための理論が行為そのものの理論に如何に接続され得るか、
が問題だ。

  

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戦略的フィランソロピー

ちょっと古い話になるが。
2年程前のHBRに載ってた話を思い出した。

「戦略的フィランソロピー」

企業には、メセナ、フィランソロピーといった”義務”が存在するが、
名目上のボランティアや名を売る目的での資金援助がまだまだ多く、
それがどの程度当該企業の収益に貢献しているかハッキリ計れない活動も多い。

文化貢献、地域援助が義務とは言え、リターンが曖昧な名目に金を出すほど現在の企業に余裕は無い。
従来より日本企業の低収益体質が問題視され、量的拡大による誤魔化しは効かなくなってきている。
銀行も将来的な収益性が望めない案件には投融資を控える時代だ。

そこで、非常に重要となるのが、「戦略的フィランソロピー」。
昔に持ち出された言葉ではあるが、以前より企業の存在と社会的利益の関係に注目している私にとって、
これこそが企業活動の本質ではないかと思っている。

例として挙がっていたのが、シスコ。
発展途上国に専門学校を作り、教育を導入し、さらにそこの卒業生を自社のエンジニアとして使い、
現地に雇用を生み出し経済を活性化させると同時に、自社に必要な技術を備えた労働力も確保する。

これこそが、企業の将来的成長戦略と同調した地域貢献だ。

地域に協力し、その地域が企業に協力し、互いを高めながらさらなる高みを目指していく。
簡単に言えば利害の一致だが、そういった関係を地道に構築することがいかに難しく大事なことであるかが覗える。

最近、防災の研究に関り、同様の事例が目につく。
地震・水害。
大規模広域災害から身を守るのは住民自身、公的機関だけではない。
地域密着で活動を行う中小企業にとって、地域は顧客であり、労働力であり、基盤だ。
各々技術を要する企業こそが、企業市民として、地域と足並みを揃え災害への備えを行っていける。またその必要がある。
自助・公助・共助で言うところの共助に当たる。

カンバン方式で在庫圧縮を実現する東海地方の大企業は、
自ら音頭を取り関係各企業へも防災活動への参与を促し、
地域の安全安心へ貢献し防災力を高めると同時に、
自社の部品流通が経済活動が災害被害によって止まってしまわないよう災害リスクのヘッジも行っている。
イザと言う時には地域からの強力な支援も期待できるだろう。

これこそが、企業の将来的成長戦略と同調した地域貢献。

「戦略的フィランソロピー」

これからビジネスを創り出そうとする世界に飛び込む自分にとっての、一つのキーワードである。

  

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使命感

24TWENTY FOUR-シーズン2- を見た。

こんなにも胸に気持ちに響くストーリィがあっただろうか。
涙さえ誘うこの物語に俺は何を見たんだろう。

生物としての根幹を成す生への執着を超えた処にまで至る
人間の使命感と正義だろうか。

生命の奪い合いを繰り広げる人間へ抵抗する同種族である人間の無力に等しい抵抗力だろうか。
そのひたむきさだろうか。

それとも、国際的武力政策にまだ見ぬスケールを感じているのか。

この場合、”響く”ってのは、未知の世界、状況、情報への本能的な興味、喜びを指していると思う。

最も興味深いのは、「使命感」。
時として、全ての行動の基礎と”正当な”理由となりうる。

おそらく根拠は、今までに蓄積した自身に内在する全ての情報とそれを処理する自身の感情。
生きてきた各々のステージで培った個人としての感情。

大切にしなきゃいけない反面、世間との整合性が求められ、時として矛盾を”感じる”ことになる。

ただ、自身にとって最も幸せなのは、後悔せずにすむ方法は、
自身の”感情”に素直な選択を行うことだ。

世間的に見ると危険分子みたいな言い方だけど、
それを捨ててしまうようでは、自身としての「個」を放棄することに等しく、
”生きる”ことへの夢もやりがいも得られないと、そう思う。

私は、まだ、”信じて疑わない”自身の信念を持つには至っていない。
おそらく、一生完成することはないだろうが、常に感覚・吸収・成長を意識してバランスを忘れないようにしたい。

そして、生きがい、を大切にしたいと思う。

  

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October 11, 2004

まとめ

まぁよーするに、
社会人になるに当って、「自立心」ってのが初めて具体的に頭をもたげてきたって事。
それは”自律”でもあるんだけど。

その際、昔の俺を否定せずに新しい自分を創っていく。
難しいのはそのバランスを取る事。

ヤル気はある。ただそれが空回りしませんように・・・
 
  

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理屈と気持ちの境目

変化が無く安定した世界なんてありえない。
つまりは、不動の世界に落ち着き安穏と安定に浸る生活なんて幻想たる欲望の産物にすぎない。

それが言える最低限の理由としては、
人間を除いて考えた世界が、つまり人間が生活を営む基盤となる地球そのものすらが、安定とはかけ離れた営みを行っているからだ。
地殻変動が、気象現象が、そして”そこから誕生した生命現象”が、明確にそれを示唆している。
いつまでも”同じ”生活が許されないのは、地球上で生命活動を営む以上太古の昔から分かってきたはずだ。

さらにそこに、人の意思が絡む。

宗教観、恋愛観を持つに至った生物が、各々の”意思”をもって変化する世界に対応してきた。

各種現象を解明・説明することは出来ても、いやむしろ科学的論理的にそれが出来るようになったのはごく最近であることに問題があるのだが、それぞれの意思がそれぞれの解釈をもって正義という概念の下に行動を「選択」してきた。

世界中の全ての意志の交錯する只中で、”意思”も変化してゆく。
それぞれが活動を展開するステージの上で。

ただ、我々は、完璧な伝達手段ではないとしても、「言語」を持ちうる。
それが故に、「言語」を使って利用して思考を行い、「言語」で”意思”を伝え活動している。

問題は、その両方にある。
ステージは各々無限にあること、そして「言語」でしか意思活動を行えないこと。


それを分かってもらえないとき、どうすべきだろうか。。。


俺達の年頃までは、幸運にも親の懸命なる保護の下、ある程度は安定した環境にいることができた。
その安定とは、限定条件付き、だ。
教育という作られたシステムの中で、与えられるモノを享受しながら、子供、という立場限定の安定だ。

いつまでもその中にいられるとはもはや思っていない。いられるハズもない。
変わらなければいけない。時間スケールで計ると遅すぎるくらいだ。

変化する環境に対応しながら常に自身をも変化させながら暮らしてゆく。
それが、安定、だ。

いつまでも、昔のままではない。特に、今は。
人生の中でも特に大きな変化の時を迎えている、今は。

上も見るし、見出した自身の軸に沿うように物事も判断する。
それにとって必要なものも変わっていく。

そう考えると、幻想に過ぎない見かけ上の安定を望む人が多すぎる現実は、解釈に苦しむ。
”変化”に苦しむから愛する子供に”安定”を与えたい大人ごころか?

教育という出来上がったシステムによるメリットを自覚しきれない以上否定が出来はしないが、
昔と違って変化のスピードが加速した以上、過去を保つことなどできないのは明白だ。

俺も、変化、する。

ただ、根っこは変わらない。

それなのに、
それを前提とした話が相手に通じない場合、つまりはそのステージ上の言語が通用しない場合、
可能な限り因果関係を過去に遡り説得を行うための説明を苦に感じてしまう場合、
相手もそれを受け入れようと理解することを本能的とも言える態度で否定する場合、
諦める、という選択肢を選ぶべきなのだろうか。

問題は、ステージが違うところにある。

それはつまり安定を望んでいるからに他ならないのだが、
つまり、過去の、変化を迎える前の、嗜好を引きずりながら、
次のステージに進もうとしている、俺自身が皮肉でならない。

  

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October 07, 2004

地震

まーた地震かい。今度は東京。
まったく今年はどーなってんのかねぇ。

地震。
台風。

災害起こりすぎ。

そこで防災やってる人間として一言。

『家具を固定せい』

地震発生時期時間その他条件にもよるけど、
阪神淡路大震災の死者6,000人超のうち8割5部は”圧死”。
つまり、家屋倒壊や家具転倒。

寝てるトコ襲われたんだわな。
起きてたらまだ対応できても、寝てたらイチコロ。

家はしゃーない。耐震改修には時間も金もかかる。
でも、寝室の家具くらいは止めとこうや。
簡単に見えてもやり方がムズイので専門家に相談しませう。

んで、枕元には笛とスリッパ。
死者の9割以上が15分以内の死亡。
埋まってしもたら一刻も早く助けを呼ぶのだ。笛で。

んでガラスが散乱する部屋をスリッパはいて逃げるのだ。

食料は心配すんな。
阪神淡路で餓死した人はおらん。

死人に口無し。
助かった人が、命があった人が、後から食料どーの言うんであって。
救援物資でなんとかなるわ。

はいどーでもいい話でした。

  

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不満足

妙にモノ足りないのにどうやったら自分が満足できるのか分からんトキがある。
決まって夜中。一人で帰ってる時。電車中でもチャリでも。

いーかげんいい時間で、仕事した帰りで、疲れてて、帰って寝りゃいーのに。
ナンか足りない。

そんなときは、
現実妄想を問わず自分が満足できそうな状況を想像してみる。

・20人規模の飲み会に参加してめっさ騒ぐ
 →いやそんな時間にそれはウザイ。つかその時間には人いねーだろ。
・クラブ行って踊りまくる
 →一緒に行ってくれる人募集中。従って現在は実現不可能。
・めっさ綺麗な美女と夜景の輝くバーカウンターでグラスを傾ける
 →なんか全てにおいて不可能。
・風俗ハシゴ
 →そんな金あるかい。
・漫画喫茶でまったり
 →今読みたい漫画無し。

一番実現できそうなのが漫画喫茶なんで今日のところは帰りました。

んで家でバラン17Yとシュタインへーガーをストレートで。
うーん酒が苦い。

  

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October 06, 2004

ちょっと追加

足元が見えてないと揶揄されるようなこんな理想論を堂々と掲げる社長を俺は一人知ってる。
(彼の主張を完全に理解できてるワケじゃないので俺の解釈の範囲内で。。。)

『企業活動と社会的利益との整合性』
を俺が気にするのはこの人の影響。

50人程度の某外資コンサルタント集団の社長。

就職活動で彼に会えたのは、すごく、すごく、大きかった。
理想論を現実に変え貫き通す社会的実力。

いつか彼の下で働きたい。
そして彼に追いつきたい。

最も憧れる人間の一人。

  

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October 05, 2004

理想の社会

これから社会人になる者がこんな事を言ったら不安視されるかもしれない。
見くびられるかもしれない。世間知らずと笑われるかもしれない。

それでも思うところがある。今だからこそ。

『社会活動に理想を求めちゃいけないのか??』

経済・企業ニュースを見れば、不祥事や権力闘争の成れの果てが目に付く。
以前も書いたが、こういった「規範」に取り込まれ埋没し結果腐敗飛散することが怖いのだ。

奇麗事を言うつもりはない。
ただ、『真の意味で中長期的な利益を求める合理的な選択を行いたい』だけだ。

日本の経済構造を詳しく知るわけではないが、
投資家が目に見える直接的短期的な利益を重視する風潮があるのは分かる。
それでは、植えている種が評価されない。

土木分野ではNPVという評価手法があり、
金融工学における社会的割引率だってそういった視野に立った指標であると思うが、
経営実績評価というのはかくも短絡的なモノなのか。

生物学的組織論的に言えば、
最重要のハズの組織の適応力・柔軟性といった生き延びるタメの根本的な”力”ではなく、
収益性・利益率や売り上げといった表面的な数字が重要視されている。

直接的には収益を上げる事かもしれないが、
組織の究極目標というのは、
『永続すること・生き残ること』ではないのだろうか。

それは翻って収益を上げ続けることであり、変化する環境に適応していくことである。

その視野が欠けているから、
直近の利益を追求する余り、反動で長期的な競争力を失う。
権力闘争に身を削り収益を稼げる体質を育てられない。

なんてバカらしい。。。

経済雑誌記事から拾えば、
無理なノルマ性を強制し人材を疲弊させ結果人材流出・競争力収益力低下につながっている銀行などその典型例だ。

もちろんそれをしなければ倒産が目前に迫っている事情も理解できる。
ただ、あまりにバランスを欠いた場当たり的な対応のみでは遅かれ早かれ結果は同じだ。
切捨て見限り大胆過ぎると思えるほどの根幹的な構造変化を断行しなければジリ貧じゃないのか。

そういった意味で、
理にかなった、合理的な、納得できる戦略の下で動きたいと思う。
それであれば頑張れる。先が見える。力を惜しまず取り組めると、思える。

モノの見方は様々だ。
企業により、ヒトにより、目指すもの、拠り所とする概念、信念は異なるだろう。

だからこそ、自分が信ずる方向を同じくする組織の中で、精一杯やりたい。
疑問を感じながら、「規範」に流され、結果共倒れでは救うに救われない。

自分の方向が間違っていたのなら、自分のせいにできる。悔い改められる。
誤りを正し、再出発できる。

だが、他の人のせいにしてしまうような状況で、どれだけのエネルギーを再転換できるだろうか。

奇麗事と笑われるかもしれない。
世間知らずと嘲られるかもしれない。

けど、願う。

『自分が正しいと信じる方向の中で相互作用しながら前に進む企業体の中で頑張れる』
コトを。

  

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そったく

『そったく』って言葉があるらしい。
(漢字不明。よって言葉も合ってるか不明)

まあ細かいことは置いといて。

『そったく同時』

ニワトリは卵を温めて雛を孵す。
そんとき、内外両側から殻をつっついて割って出てくるんだと。

親鳥がつっつくのが早ければ、中の雛がまだ成長できてないのに割れてしまう。
中からつっつくだけなら、殻が割れず外に出られない。

『内と外から、同時に、つっつく必要がある。』

つまり、直感とタイミング。
片方だけじゃ上手くいかないけど、両者が互いに理解して協力して初めて事を成せる。

そんな意味だったよーな気がする。

  

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October 04, 2004

車内携帯電話

ずーーっと疑問だったんだけど。
ナンで公共交通機関内での携帯電話使用が禁止されてんだ?

大義名分としては、『ペースメーカ』への影響が唱えられてるけど、
その影響範囲は携帯電話を中心としたわずか半径23cm以内って検証されてから、
最近は車内放送でも控えめな訴求表現になってる。
『マナーモードにして優先座席付近では電源を切るように』
って。

それなのになんで、世間一般的には、
車内で携帯電話を使う事が「社会悪」みたいに言われてんだ??

物理的な音としてウルサイから?

それだったら、大声で喋る2人組とか音漏れするヘッドホン、座り込む若者のがよっぽど迷惑。
普通に喋ることが許されないってこと?
友達同士で車内で会話することは普通で、携帯電話で会話することが悪い、
ってどゆこと?誰か説明できる?

たまーに注意するオッサンもいるけど、オマエの声のがよっぽど迷惑だっての。
”決まり”とか”制度”とか固定化されたモノを持ち出す奴に限って本来の意味を理解してない。

大体、『ペースメーカ』への影響なら、携帯ラジオとか通信PDAだってダメなハズ。
土日だったらラジオ使用者とかいそうなモンなのに、そういった車内放送は聞いたことない。

車掌だって、車内徘徊中に実際注意するとこあんま見ない。
顧客の気分を損ねるのを恐れてるのか逆切れを怖がってるのか知らんけど。

有事(電波事故)の際の責任の所在だって不明確。
そんなに訴えるなら、1車両完全電波防止にして医療対象者専用にすりゃいい。
痴漢事故防止で女性専用車両作ってるくせに、生命の危機に対しては少数派扱いで無頓着。

そんくらいよく分からん扱いの携帯電話。


でも今日、バスの中で、
大学生とおぼしきしょんべん臭い小娘がツッコミどころ満載の知ったかぶり恋愛論を携帯電話で繰り広げるのを聞いて、
分かった。
(いや、盗み聞きじゃないよ。でっかい声が聞こえてくんだからしゃーないやん。)

エラソーなんだ。アイツラ。

携帯で喋る奴って、何故か偉そう。
座ってる奴は足組んで、ふんぞり返って、肩肘ついて。
携帯で喋ること自体がカッコイイかのごとく格好で喋る。

そらムカつくわ。実際結構ムカついた。

他の客に不快感を与える行為なら、公共交通機関運営側としても理由をつけて禁止せざるを得まい。
納得。

でもどして偉そうなんだろ?
こんだけ普及してもまだまだ従来無かったモノへの新鮮さ・憧れみたいなんがあるんかな。

話す内容もその理由の一つだとは思う。

ただの用事ならメールで済む。これなら無音。
だけど、携帯でわざわざする話ってなると、まあたわいもない話もするだろけど、
友達からの相談、経験談、自慢話とか、周囲の人間に聞かれて(聞かせて)優越感を覚える様な内容が多いのかもしれない。

俺もなんとなく身に覚えがある。いや、野外でだけど。


まあ、それはともかくとして。

爆発的に世界中に普及し、ネットワーク社会の形成を促進し、新たな人間関係を創造する手段になり、
市場としても大きなものを創り出した携帯電話。

生物学的な自己組織化臨界現象と比較されて表現される様に、
経済学的にも新たなネットワーク性コミュニティの在り方に関しては議論も盛んだ。

だがユーザである肝心の人間がその変化に追いついていってない。
目の前の利便性だけを追い求めるようでは、今まで散々ある例から想像されるような悪い結論さえありえる。

今のところ、”既存”の”社会的常識”ってヤツに従ってヒトの良心に委ねるしかないんだろな。

でも、”常識”は常に変化してる。
昔の常識は現在の非常識だ。固執しちゃいけない。
柔軟に、しかも確実に、変化させてく必要がある。

一日も早く、新たな”常識”の下、皆が納得して快適な公的生活を送れる環境が整うことを願う。

  

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