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November 2004

November 29, 2004

まちへの不満-自転車認めろ!

道交法第何条かしったこっちゃないが、とにかく『自転車』ってのは歩道でなく道路を走るよう義務付けられている。
時々ある「自転車通行可」の標識がある歩道だけ自転車が通行することを許される。
それを何人が正しく認識しているだろうか。
タクとバス。幅寄せしてくんなっての!ホントに!邪魔!!オマワリも注意しろよ!!!

それを文句ゆったら、今度は自転車通行禁止道路にすんだろな。四条通みたく。
観光都市を謳う京都市がさ。一番環境に優しい乗り物を禁止すんのよ。なんだそりゃ。笑かすな。

んで駐輪場も整備しない。
京都駅周辺なんか特に必要な交通結節点じゃねーか。
環境を考慮したまちづくりに失敗してるくせに、それを棚に上げて駐輪禁止とかワケ解らん権利を振りかざして撤去するし。
バカじゃねーの?

観光ピーク時なんて、銀閣寺付近から京都駅までバスで1時間以上かかんの。道路混んでるから。
でも自転車なら25分。どーよこれ?

交通需要政策の一環としてレンタサイクルをもっと配備して道路もそれに適応できるように条例を変えて。
本気の姿勢を見せてみろや。
そしたらCOP3発祥のまちとして世界もちょっとは見直してくれるよ。

まったくお役人ってのはお上側の都合都合でモノごとを決めたがる。
管理がラクな方へ動きたがる。

そんなんで市民がついてくるのかねぇ。

  

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願わくば豊かな人生を・・・

積み重ねた想いから自分の軸を決め、目指す理想を体に留め置きながら進もうと決めた。
それが、変化していく世の中で自分が真っ直ぐ進んでいくための自分の責任だと思ってた。

でも、軸にコダワリ過ぎてカタクなってた自分にふと気付いた。

悪いクセなんだ。俺の。
すぐ一本調子にしか目の前が見えなくなって柔らかい考え方が出来なくなる。。。

「元気ないよ」
って最近何度か言われてようやく気付いた。

ああ、俺って捉われてた、って。
自分で創った軸に。その足を固定されてた。


最近、飲み会に行っても誰かと遊びに行っても、ナンか心底楽しめなかった。
ひっかかるのは、解決できない研究上の悩み。
(まぁあとは恋愛のナヤミ(?))

非日常の世界からそれへのヒントがもらえるならともかく、その場しのぎで気分転換したって研究の日常はまたすぐ巡って来る訳で。
何も根本的な解決にならない、って思ってたらその場を楽しむことなんか出来なかった。

前はそんなことなかったんだけどね。
最近卒業と論文の締め切りが具体的に見えるようになってきて無意識にプレッシャー感じて余裕が無くなってたんかなぁ。

「前はあった目の輝きがないよ」
って言われたのは多分そのせいなんだろな。
心ここに在らずで心配事が頭を占めてたら本当の笑顔なんて出ないわな。


でも、それじゃダメだって思った。

社会に存在する俺は決して一つじゃあないんだ。

ある軸に沿って究極的には個の確立を目指して進んでいくことが生きる目的だと思ってたけど。
そんな俺じゃない俺だっていっぱいいる。
いつから人生全てを一つに捧げるみたいなカンチガイしてたんかなぁ。

そんな生き方、『豊か』じゃない。

もちろん、色んな経験を一つの軸まわりに取り込んで一つの方向へ積み重ねて成長させることができれば進むのは速いかもしれないけど、
世の中そんな単純じゃないわな。

もっともっと色んな経験を楽しんだってイイと思う。
だって世の中広いんだし。
可能性を狭めてしまうリスクを今から背負う必要はこれっぽっちも無いわけで。

もちろん、何を目指していいか、これからの自分がどうあるべきかを考えるに当って、”軸”って考え方は有用だった。
考えすぎるほど今までの経験を色んな場で色んな角度から振り返って、色んな人から話を聞いて創ってきた”軸”。

一番効いたのは、
「5年後の自分をイメージすること。そしてそれに向かって真っ直ぐ進んでいくこと。迷いがあるから、強くなれない。」
ってNYCにいた時ニューヨークタイムズかなんかのちょっと偉いヒトから貰ったセリフ。
ごちゃごちゃ細かいこと抜きでダイナミックで、あぁアメリカンだなぁって感心して、突き進んでいくその力強さに憧れた。

だからこそ、自分の方向性を自分で納得して決めて進んでいこうって頑張ってこれた。
選択事象に優先順位を付けて満足できる形で生活を送ってこれた。

けど、この所ある程度出来上がった軸に振り回されてたみたいだ。


そろそろ、次の段階に進んでイイ頃だ。

軸に沿って進んできた。
その方向を念頭に置いてヒトと会うことも勉強することも楽しかった。
だからこそ、ある程度中心を創り込むことができた。

だからこそ、無意識にでもその方向性をいつも自分の中に持っていられる自分になれた今だからこそ、
もうちょっと自由なモノの見方を許してみよう。

軸から外れたモノを常用外と決め付けて枠の外に置かず、
自分は決して一つで無いことをちゃんと感じて、
もっと色んな自分を認めてやろう。

そしたら、感じられる幸せがもっと増える気がする。
もっともっと豊かになれる気がする。

社会人になって今を振り返って、
「死ぬほど忙しくて充実した毎日だったなぁ」って感慨にふけるよりは、
「忙しくて学ぶことも多かったけど、学生の時間もちゃんと使って豊かな日々を過ごしてこれたなぁ」って思いたい。

24時間を仕事や研究の事を考えるのに使えばもちろんそれなりの成果が出せるんだろけど、
でも毎日の生活の良さってそれだけじゃない。
結果的に仕事に結びつかなくても、豊かな時間を遣うことは後悔しない人生を送ることに多分必要なんだ。

もちろん、上手く行かない仕事や研究からの現実逃避ではない。
自分の役割に責任も持てないようじゃ偉そうなコト述べる資格なんてない。
努力してやることをキチンと果たして、それから初めて他の時間を求める権利を得られる。
そんな事あえて言う必要すらない。

ただ、狭くなってた自分をツマンナイ奴だって思っただけだ。

捉われすぎてた自分を可哀想とも愚かだとも思わない。
ただ、これからちょっとは素直に意識して生きていこう。
『人間の生活の豊かさ』ってヤツを。

  

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November 25, 2004

地域に生きる市民としての企業

戦略的フィランソロピー。
自社の利益にもなる社会貢献を戦略的に打ち立てていくその姿勢は、以前シスコの例を用いて書いたように地域に根付いた活動として現れる場合も多い。
それが、『企業市民』だ。

民間企業の本質は利益追求事業体だが、その活動は取引先や出資先だけで成り立っている訳ではない。
特に製造業ともなると、工場を構える地理的土地を基本として、そこに働く従業員や関連各工場など周囲の環境との強力や調和が、活動の根底として求められる。

とくに大規模災害時など、企業が地域に果たす役割は大きい。
避難スペースの確保や重機類工具の提供といった貢献が期待され、
反対に地域住民や環境のサポートがあって企業活動も再開できる。

そういった意味で、民間企業と言えどその地域に生きる住民の一人であり、『企業市民』という言葉がある。

少し特殊な例にはなるが、私が災害ボランティア体験イベントで実感したTOYOTAという企業が地域において展開している活動について触れてみたいと思う。


トヨタという企業は年間150億円もボランティア活動に投じている。
各種講演会の開催や人の派遣、啓蒙活動など様々な活動の中で、今回の災害ボランティア体験イベントがその一つとしてある。

これはトヨタ関連13社が合同で開催し、社員や地域の人に災害時にどう対応しなければならないかを啓発するイベントだ。
2日間に渡り著名人の講演、グループワーク&発表、炊き出し、ボランティアセンター設営、消化活動救助活動体験、災害弱者付き添いボランティアといったメニューをこなす。夜は寝袋を持ち込み体育館で寝る。食事は全てハイゼックスやカンパンといった非常食だ。総勢350名が参加した。

昨年の同活動より以下の点で遥かに規模が大きい。
・災害時ボランティアセンターの設営において、本部以外に支部を2つ立ち上げ、センター間でのやり取りも演習した。
・車椅子や障害者、高齢者といった災害弱者を呼び、仮想災害時コースを回ってもらい体験してもらうと同時に、健常者による付き添いも体験する。非常時にそういった人を救助する訓練にもなる。

広大な敷地にあるトヨタスポーツセンター全体を巡るコース設営や、実際にはしご車や消防車、起震車(揺れて地震を体験できる車、現在大人気で数ヶ月の予約待ち状態)を出動させるところを見ると、ケチな金の掛け方をしていないことが分かる。

トヨタはどうして莫大な金をかけてまでこういった活動をするのだろうか。

理由は2つ。
地域への貢献と、自社への利益、だ。

地域への貢献についてはその内容が想像できるだろう。
大地震を経験したことがない地域に住む人達に、災害時はどうやって行動したらいいのかを、知識と実際の活動の両方を提供することで伝えていく。
実際に備蓄や耐震補強をする人も増えるだろう。
地域全体にそういった知恵を伝えていくことでボランティア等の機運も高まり、地域の防災力が向上する。
結果的に大規模災害が起きても、死者や家屋倒壊数など被害が軽減する方向へ向かう訳だ。

そしてそういった活動は同時にトヨタ本体へも利益をもたらすこととなる。

まず、地域に住む人が同時に従業員でもある点だ。
地域に住む人が助かる=自社の従業員が助かる、という図式が成り立ち、災害時における対応を早め特別損失を大幅に減少させることができるだろう。

そして、今回のボランティアセンター設営を行っているのもトヨタ関連企業社員だ。開催側にとってこれも一つの訓練である。
つまり有事において、自分たちでボランティアを組織し派遣する機能を確立し、お上による公設民営型の同センターと連携を取りながら自分達で自分達の活動へ責任を持って補佐を行っていく能力を高めていると言える。

そしてそれが、企業活動の維持へ繋がる。
看板方式の採用によって在庫保持リスクを限界まで小さくしているトヨタにとって、最も損失を与えるのは関連各企業の活動が停止することだ。ある部品の供給が停止するだけで、在庫がない分すぐさまモノの流れが止まり全体の企業活動が停止する。災害時にトヨタが最も恐れるのは、関連各企業の活動がどこかで止まってしまうことだ。
車というのは何万もの部品によって組み立てられる超複雑な機械構造体だ。従って逆に言うと、トヨタは何百もの関連各企業の活動をサポートしてやらなければならないことになる。大規模災害時においてもその活動が停止しないよう事前準備を促進させる必要があるのだ。

そしてそういった企業の活動は大中小を問わず地域によって支えられている。
つまり、地域に貢献し、市民としての企業と地域住民や環境との連携を普段から強化し、有事には貢献し逆に協力してもらうことで、自助共助の相乗作用によって企業活動の復興を急ごうという狙いなわけだ。

これこそが、地域貢献を行う『企業市民』の在り方であると、俺は思う。

豊田市は少々例外的な町で、トヨタ関連企業が支配的な存在であるためこういった活動が一貫して定着しやすい。
他の場所で色々と活動を行おうと思っても、多くの参加者を全体効率性にそって集めるのは至難の業だろうし、そもそも関連の無い企業同士で共通の活動を実施することに無理がある場合もある。時に利害が相反するからだ。

しかし実情はどうあれ、企業活動が同活動地域の支援や協力によって支えられている事実は変わりない。
周囲の理解を得られなければ、そこで活動することすら許されないのだ。

企業とは、金を稼げばイイ存在、とは思っていないだろうか。
最近になってようやくCSRといった考え方が広まり、企業が社会において果たす責任に注目が集まるようになったが、それがニュースになるようではまだまだ定着は先の話だろう。

国という土地の上に存在し、地域に住む人がそこで活動する以上、利益追求体として単体で存在することはもはや不可能だ。
そもそも古来からの地域の経済活動は地域一体となって行われてきたハズだが、都市化や国際化が加速する流れの中でそういった公の意識が希薄になってきたのではないだろうか。

俺ら個人が責任を持ちながら社会に生活する権利を獲得しているのと同様、企業もそうなんだ。
独占利益を求めるだけでは結局豊かになれはしない。貧しい取引相手ばかりの中でどうやって利益を伸ばす?
目指すべきは、地域と協働することで得られる相乗効果的な利益だ。

日本全体での経済活動活発化を目指していくためにも、これから企業で働く俺ら自身がそういった意識を持って社会に入っていかなければならない。
30年後の経済を創っていくのは俺らだ。
寡占独占による経済損失を生じさせるよりは、みんなで高め豊かになっていく国を目指しその中で生活することを夢見ていきたいと思う。
地域住民の一人として。

  

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November 20, 2004

ミスコン中止・・・

京大初のミスコン中止になったみたいやね。残念。。。

結局、学内の反対勢力に押し切られて主催者側が諦めたような展開らしいが。
なんかね、とてつもなくバカらしい。。。
なにがって、躍起になって反対するバカどもが。

そら開催に関するスポンサーの付き方とか手続き上の不備があった点は仕方ないかもしれない。
けどさ、『既存のジェンダー(社会的性差)の押しつけ』って言い分ナニ??

断っておくが、俺が女性差別推進派である訳でもなんでもない。
ただ、一方的な視点から自分が総責任者でもないイベントの反対に中止に押し切るまでにでしゃばるのはどうなんだ、って言ってるんだ。

例えばそいつらは、祇園って世界をどう思ってるんだろうか。
古くから、その道に入り全てを傾ける女性達によって支えられ発展してきた京都独特のこの世界。
舞妓芸子だけじゃない。
ホステスだって、同じだ。
もちろん経験や考え方をお喋りの中から学びに楽しみに来る客もいるが、女性に対してお金を落とす客も多いのも事実だろう。
アッチ系の人達が仕切る店もあるが、祇園町ってのは基本的に彼女らだけで盛り立ててきた場所だ。

「社会的性差」がどーのと声高に唱える奴は、祇園町に乗り込み客とホスト側に「社会的性差を解消せよ!」とか怒鳴ってるんだろか。
アッチ系の人達がバックにつく店に飛び込んでわめき散らしてるんだろか。

社会経済企業活動だってそーだ。
そいつらは就職活動時に、一般職に女性が多い企業は決して受けないとでも言うんだろうか。

学際だってそーだ。
ミスコンを実施してる他大学の事務所に乗り込んで中止を唱えているんだろうか。

ナニが言いたいかってーと、
社会的事象は決して単一の価値観からは評価できないってこと。
そして、全人生と命を懸けてそれに取り組んでるならともかく、他のトコロのそれを横目で見ながら目ぇつぶってるくせに、自分が大きく出れる場所だけで調子に乗ってでしゃばってんじゃねー、ってこと。

今回の問題で言うなら、ミスコンを中止した場合のデメリットとして、
雑誌やWebで散々宣伝しておきながら結局実施しなかった大学ひいては学際への信用・評価の失墜、
集客や学際実施に関する運営上生じる支障、
周囲の人間、関係各者の大学への印象、見る目の変化(→これが後々大きな影響力を及ぼす。例えば、京都という街へ抱く観光都市としての印象すら定量化し経済効果として歳入勘定する試みすらあることを考えると、人が抱く印象や感覚は無視できない経済効果を及ぼし得る)、
そして既にエントリー者としてプロフィールを公開されている女性達の立場、等々。。。

それと、ミスコンを実施した場合の彼らの言う社会的性差問題の増長が社会的に及ぼす影響を、両方考慮して意見を述べるべきだろう。

何より腹立たしいのは、他人主催のイベントを自分の思想一つで中止に追い込む権利があると勘違いしてることだ。
仮に自分の信念から自分が我慢できないという至極私的な理由のみで反対するとしても、
主催者の負うデメリットを自分でも共有し背負う必要があるだろう。
だって他人に迷惑かけていい権利なんて誰も持ち得ないからだ。
自分もその痛みを背負います。だから自分の言い分も理解して下さい。ってなところだ。
でも、そんな度胸や度量も無いクセに、権利だけ主張するなんて、世間が若者に向ける目が冷たくなっていくのも致し方ならぬところだ。

誰にだって、譲れない考え方、信念といったモノがあるだろう。俺にだってある。
けれど、分をわきまえなきゃならない。
それが、社会に生活させてもらってる者として背負う義務だ。
社会は俺ら個人個人が創っていく。だけど、ある程度その流動と成長を整えるために自分らで自分らに課した規律を守らなければ、そいつは社会に生きる意味がない。
他人に与える影響を自分で吸収することが出来ない限り、そういった競争が認められている資本市場とかでない限り、身勝手な主張は許されない。そんな主張で他人を説得し成長する方向へ社会を動かしていくことなどできない。

ヒトが何を考えるか。
自分との違いは何か。

それに出来るだけ広く思いを巡らし、背負う義務として時には受容範囲を広く取り、共に社会活動を営み成長させていこう。
それが、独りでは生きられない人間が身に付けて来た生きる知恵だと思う。

  

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November 19, 2004

自分の子供を考える

災害ボランティア体験イベントで経験した、
知的障害を持つ子供たちの災害擬似体験コースの付き添いボランティア。
これを通じて認識を深くした自分の子供への想いを述べようと試みたところ、
非常にデリケートな話題に触れる結果となったため、自粛。

ただ一つ言いたいのは、どんな世間の状況も決して他人事ではないということ。
自身は受け止め、愛し、自身の人生の方向を転換していくことができるだろうか。

また興味がある人は語りましょう。

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地域に生きる人たち

先週末、トヨタが主催した防災ボランティア体験イベントに研究の一環として参加した。2日に渡り総勢350人が参加した一大イベント。

ここで俺が感じた紹介すべきポイントは、

・社会福祉協議会
・知的障害児
・企業市民

の3点。

今回は『社会福祉協議会』について言いたい。


社会福祉協議会。(略称:社協)
社会福祉法にて規定される業務を遂行する社会福祉法人。
主な業務は介護福祉関連。
それぞれ県や市町村に属する準公的機関であり、事業資金は地方公共団体の予算から捻出される。

災害対応には災害弱者の問題も大きい。

身体的ハンディから一人で逃げられない高齢者。
周囲の助けを得にくい独居者。
言葉が分からずに取り残される外国人。
力の無い幼児。

だから、こういった防災イベントには社会福祉関連機関が参加することも多い。
そこで仲良くなった安城市の社会福祉協議会の方に色んな話を聞かせてもらった。
元は機械系メーカーで営業を担当していたが、数年前に社会福祉士へ転身された彼。
これから経済活動へ身を投じようという俺には非常に興味深い話だった。

有給を使って週末の地域の防災イベントに参加し、かつその結果を社協に持ち帰り地域における自分らの活動に反映させようという彼の姿勢には何か新しく感じるものがあった。

それは、『地域に生きる人たち』、という視点。

地域の福祉は間違いなく彼らがその一端を担っている。
社協により介護保険を扱っているところと扱っていないところがあるが、法に定められたサービスの展開に関わらず社協がなければ高齢者や身障者は普段の生活が活気のあるものではなくなってしまうだろう。介護保険以外に、食事会や講演会、健康教室や旅行、季節のイベントなど日々の生活に色を提供しているのは彼らなのだ。

しかし、彼らは公務員ではない。
つまり、生活を保障されてはいない。財務リストラの対象になり得るのだ。

通常、地域の幸せのために動く公共団体では、公平性を基本とするその仕事の性質故にジェネラリストが育成され突出した能力が求められない人材育成としてのリスクを背負う反面、その身分は国に補償される。
その権利だけを求めて、カンチガイした動機で公務員を志望する若者も少なくない。

それなのに、社協の彼らはそんな身分保障も無しに数万都市の福祉をたった20名程度で担っている。
その労働時間も半端ではないと聞く。もちろん社協によりけりだろうが、月に休みが3日もないサラリーマンと同様の業務をこなしているところもある。そのほとんどがサービス残業だ。

地域の幸せのために、そこに「住み」「生活する」人々が安心できる暮らしのために、自分が地域の活動の中でやるべきことを成すために、身分や金銭的利益とはかけ離れた思想から、その身を地域の生活への貢献へ捧げる人たちがいる。

この公共性を欠いた日本社会において、公的帰属意識から自身をそのローカルダイナミズムの中に浸透させていこうとする人がいったいどれだけいるだろう。

ただ救われるのは、少なからず確実にそういった人たちがいるということだ。
基本的に年功序列で上から抜ける分しか求人しない組織だが、昨年の競争率は募集1人に対して応募30人超だったそうだ。しかも、若い人たち。

変わり者が多い、と彼は言っていた。
メーカーで働いていたときは見なかったタイプが多いと。

どんなタイプが多いか私には想像しかできないが、彼らが集まって口を開けば社会の在り方についての議論になる。その根底に流れるのは、どうすれば地域に住む人が幸せな生活を送れるのか。その制度や現状をいかに変えていくべきかという話になる。自然と。

それを聞いていて、あぁ俺らの生活ってただ当たり前に流れてる訳じゃないんだ、って思った。
まだ福祉サービスの世話になることは少ない。けど、自分が引退した後の生活、しかも体調を崩した時の生活を想像すれば、それを支えてくれる人の存在の大事さがなんとなく分かる。

俺ら若い世代は将来への夢を見る。ビジネス界へ懸ける想い。
就職活動の花形と言われるコンサルティング業界や金融、商社、マスコミ・メディア、メーカー、そんな人たちが集まる勉強会等に顔を出せば、いかに戦略を展開するか、マーケティングを実施するか、ビジネス界における自分の役割をいかに果たし収益を上げるかといった議論に花が咲く。

もちろん、経済を担う主体は必要だ。国として存在する以上ある程度の国際的経済活動を営まなければその生活は保障されない。
しかし、それと同様に「地域の生活」を担う主体も重要であることを分かって欲しい。

若くして障害を持ち周囲の助け無しには日常生活を送れない人、子供に障害児を持ち日々の生活がその補佐に追われる親御さん、独り寂しく暮らす独居高齢者。彼らの姿は決してヒトゴトではない。
俺らの生活は、それを支える事を自らの任務として引き受けてくれる人たちによって成り立っているんだ。

時に、税金から給料貰ってるんだから当然、とかワケの分からないことを口走る人がいる。
そんな人に限って、普段は無関心なくせに、自分が税金を払ってることだけ妙に強調し、
体を悪くした時には平然と福祉サービスを要求する。

もちろん、そこに働く人たちは税金から給料を貰っている。
だがしかし、時間給だけで見れば決して割の合わない仕事をこなしながら、人間としての地域生活を常に根底で支えている人たちがいる、ことを本当に分かっていないのだとしたら甚だ心苦しい。

今の主なテーマの一つに、退職を目前に控えた団塊世代の扱い、があるそうだ。
仕事を終えて急に毎日が空っぽになった彼らの中には、地域の役に立ちたいとボランティアの門を叩きに来る人も多いそうだ。それでなくても、急に時間を持て余し引きこもりがちになる60代の人も多いとか。

ただ、今の日本にはそれの受け皿が出来上がっていない。
そもそも、狭い土地に集まって生活する知恵を身に付けて来たはずの日本人よりも、コミュニティの考え方についてはアメリカの方が進んでいる。
だから、ボランティア活動を統括する人たちが集まってアメリカへ行く話もあるそうだ。

「地域」の「生活」を支えてくれる人たち。
そういった人への感謝を忘れずに、俺らにできる役割を社会において果たしていこう。

最期に、その人からのメッセージを載せたいと思う。

『僕は市という小さい単位での地道な活動ですが、かっきぃさんは商社というグローバルな関わりが魅力なのかもしれませんね。大きな会社に勤めると僕らのような小さな活動は見えなかったり数値でしかなくなったりしますが、よくわからない不思議な団体が世の中にはうごめいていて、それなりの作用をしてバランスが取れているということをチラッとでも頭の片隅にでも入れておいてもらえたら嬉しいです。』

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November 18, 2004

欲求不満

ともかく上質な音楽が聴きたい。
足りん・・・

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November 12, 2004

ヒトが次に求めるモノ

「この仕事のやりがいは何と言ってもお客さんから『ありがとう』って言われること」

社会人の方に、その仕事をしていていつ嬉しいと感じるか聞くと、よくこんな答えが返ってくる。

いいなぁ。すごく。

思い返すと小さい頃からそうだった気がする。
褒められると嬉しいから頑張る。
叱られる、怒られるのがイヤだから期日までに仕上げる。

もちろん、そんなこと屁とも思わない感じないヒトもいるだろけど、
逆にそうであるヒトも世の中に多いと信じたい。

精神的充足。

もちろんそれは、物的豊かさを獲得した日本だからこそ。

中国人に日本人は勝てない、と言う人がいる。
日々の生活も満足に送れない人が多い彼らはハングリー精神が強いから、仕事や勉学に対する熱意が違う。従って伸びる実力が違う。このままだと日本は、安穏とした日本人は負けてしまう。と。

けど、違うと思う。

多分今は移行期。

もちろん昔の日本人はハングリーだったんだろう。
だからこそ、経済的豊かさを目指してエコノミックアニマルと言われながらも工業化を推し進め経済発展を成し遂げてきた。結果、経済大国なんて大国勘違いもいいとこの言葉まで出てくる始末。

次に求めるべきは、精神的豊かさ。

その兆候は随所に見られる。
サービス業が増えているのがまずその証拠。
そして、以前から取り上げているように、モノや金のためでなく、理念を共有できる人と協働することにやりがいを感じる若者が増えている事例を多く見る事が出来る。

ただ、そこに関する議論がまだまだ少ないように思える。
もっと、精神的充足とはナニか、これからの世代は何を目指して活動していくのか、といった議論や研究があってもいいと思う。
そういうどちらかというと生物学的抽象的で説得力のある指標や評価項目が無いから、普及していないから、社会や仕事に関する記事に対して違和感を感じ、将来の夢やヤリガイを見つけられずにいる若者が増えたりしてるんじゃなかろうか。

これから色んな種類のそれが出てくるだろうけど、
多分根幹はどれも一緒だと思う。

『ありがとう』と言われるのが嬉しいから。
方向性を共有できる人と一緒に働きたいから。

そんな、精神的なナニかを求めていけば、まだまだ日本は強くなれる。
新しい方向に向かってまだまだ豊かになれる。

モノに溢れていようが、足りないモノはいっぱいある。
だから俺は、社会で働いてみたいんだ。

  

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November 10, 2004

夢の共有

人生に伴侶が必要だと思ったことはまだ無い。

でも、目指す方向を共有できる相手は欲しいと、切に、想う。

具体的に同じモノを目標とする必要はない。
だけど、ヒトと接し引き込み引き込まれながら生きていく中で、
自分に勇気((何かこう心の底を活性化させてくれるモノ))を与えてくれるのは、
方向性を共有できる相手だと思う。

例えるなら、平衡にどこまでも続く二本の軸(直線)。

その上で、
直線の終点が見えないその先を目指して、それぞれが進んでいく。
時には俺が早く進み、時には先行する相手を横目に見ながら自分も頑張る。

時には直線が途切れたりするのかもしれない。
時には障害物が視界をさえぎるのかもしれない。

そんな時勇気をくれるのは、同じ方向に進む、もう一人。
多分逆もまたしかり。

与え与えられ、時には基盤すら交換し、互いの知恵を深く高めていく。

今までの俺は広げるだけだった。軸はあっても直線ではなかった。
色んなヒトと接するだけ話すだけ、前に進めると思ってた。
だけど、それは軸をまっすぐに整える一過程にすぎない。

さんざ、迷った。悩んだ。横に広げた。

これからは、前に目指す方向で自分の強みをつけていきたい。
進み方はいろいろある。
だからそれを自分ではない他の誰かと模索していきたい。

願わくば、そーいったヒトが伴侶でありますように。。。
(残念ながら理想の伴侶の議論はまだできませんが。。。)
  
  

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November 07, 2004

タバコ配るおねーちゃん

飲んでた居酒屋にタバコ売りのおねーちゃんが来た。
薄ブルーのぴっちりスーツのみっじかいスカートの売り子軍団。

タバコなんざ未だかつて咥えたことすらない俺は、いつもなら
「あ、吸わないんで」
とかって相手にしないんだけど、この時ばっかしは話聞いてみた。
いや、艶かしい生足に目がいったとかじゃなくて。

喫煙者は年々減ってる。

JTの発表した喫煙者率は前年比0.9ポイント減で29.4%。初めて30%を割り込んだ。
喫煙人口も前年比59万人減。
ただ、20~40代女性の喫煙者とか高校生中学生喫煙者は増えてるみたいだけど。

健康志向、人口低下、増税。
色んなマイナス要因がある。

その中での最近(?)のパッケージ変更。
今までのシンプル素朴なデザインを一新させて、輝くカラーを前面に押し出してマークも変えた。

想像できる狙いは、若い世代の喫煙者取り込み。
オッサン臭さを排除して、同じ品物でも別物と判別させる外見で入り口から取り込んでいこうって意図が見て取れる。
女性の社会進出が進んで、女性喫煙者も増えてることだし。それに合う外見を。

そんなトコが聞きたかったんさ。
たとえ俺は吸わないにしても興味はある。
業界全体が下げ具合の企業が一体何を思ってどんなマーケティングを行って製品仕様の変更に踏み切ったのか。

だから話聞いた。

売り子:「このタバコ(マイセンのプライム)は味が~~で従来のものに比べて~~・・・」←聞き古した文句。素通り。
俺:「あ~、ところでナンでこのパッケージって変わったんですかねぇ?」
売り子:「え?」
俺:「あ、いや、どんな意図で会社はパッケージを変更したんですかねぇ?」
売り子:「あーそういったことはちょっと分からないんですが。」(笑顔)
俺:「じゃあ、どーいった客層が新しいパッケージのターゲットなんすかねぇ?」
売り子:「あーそれもちょっと分からないですねぇ」
俺:「んーじゃあ、このタバコ興味示すのどーいった人が多いとか、配っててありますかねぇ?」
売り子:「そーですねぇ、ご年配の方に多いかもしれませんねぇ。」
俺:「・・・あ、そすか。じゃあいいです。あ、それもらっときます。はいど~も~。。。。」


つまんねー。
ハイハイ仕事中にシツレイしましたよ。

そら集団で店回ってるから個人ノルマとか無いんだろうけど。
だから特別な営業トークとか必要ないんだろうけど。
そこまで自分の配る商品に無関心か。
陳腐な説明文句を繰り返して微笑んでるだけか。

オッサンは嬉しいんかな。若いおねーちゃんの露出多いカッコだけで。
なーんかさびしい。

  

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November 05, 2004

目指す、ビジネスという世界

先輩方にお会いした。来年より同じ会社で働くことになる、先輩方。
そして、痛感した。自分の無力さを。

ここで言う無力さってのは、意識の力の差。
もちろん、現在仕事してる人と学生である自分の差なんて格段にあって当たり前。
だけど、それ以上の力の及ばなさを感じてしまった。

それは、想像力の欠如。
将来を現実に取り込もうとする動きの欠如。
そして、それを行う意識の欠如。

かつて、
インターンにも行った。建設と金融。
自治体職員との協働で研究もした。業務補佐で実地調査と分析もした。提案もした。
海外の大学で勉強した。グループワークを経てプレゼンもした。

だから、ナンだ。

こんなにも、自分の経験は浅かったのか、と今更ながらに疑わざるを得ない。
当事者になったことがないって、こんなにも大きな要素だったのか。
知った気になって、想像できてると思ってた。

まったく、通用しない。今のままじゃ。

ただ、視点は貰ってきた。そらタダで手ぶらで帰れるかい。

『ビジネス世界における、自身の役割と実現可能性。』

自分の理想で世界は動いてやなんかしない。
例えそれが今まで生きてきた世界の環境の下で作られたものだとしても。

世界はもっと広い。とてつもなく。
でもだから、好奇心と、怖いもの見たさと、ちょっとの希望をもって、外が見たいとも思う。

この視点をもって、もいちど振り返ってみよう。
この視点をもって、次に目指すモノを決めよう。

パーツはある程度眠ってる。ある程度育ててはきたつもりだ。
だから、それを繋ぐ新しいプラグを用意して、新しい電源を入れてみよう。
ダメならなんども繋ぎ直して、新しい世界観がそこに写るまで続けよう。

そして、走り出す。心に留めて。
そして、悔しかった過去の自分を一段変化させていきたい。

まだまだこれから。
あんなにもすごい先輩方が、来年から身の置き場となる企業に、いる。
階段を一段のぼる、その心構えと準備をする準備ができた気がした。

  

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November 04, 2004

日本を変えたい。その切り口。

今、地域の役割が改めて見直されている。
スピードが加速し過ぎ、中央集権化が過ぎた、東京都市圏一極集中の現在の日本における地域の役割が。

それは、人間の生活を見直すコト。

発展だけを追い求め雑多に集中化された今の東京圏を見て、
”人間の本来の在るべき生活”を想像できるヒトがどれだけいるだろうか。
集まりすぎたヒトの中で、互いの顔もハッキリ見えず、日々増す加速度に流され半ば機械化された経済活動を繰り返す。

そんな大都市圏とは異なり、
地方では一人一人の表情が見える自治が行われている。
小さい単位になればなるほど地域の特徴が明確になり、町役場では住民一人一人の名前と顔が把握でき、
そこに住む人達にとっての本当のサービスを展開しようと努力している。

顔の見える人間同士の対話によるサービス提供、やり取りこそが、人間の豊かな生活の本質じゃあなかろうか。

住民は本音で自治体に文句が言え、希望を述べ、喜び怒ることができる。
自分たちの生身の生活をかけて。

騒がしい都市活動だけに流され、公を意識する事無く自身の生活を営利活動の中に位置付けている人達は、
果たして国に生きる意識を自らに根付かせることができているのだろうか。
公共帰属意識の欠如こそが誤った個性の在り方を強調し行き場を失った青少年達の行動をおかしくさせてしまっているというのはよく聞く議論だ。

小さい単位で行われる地域の利点は、顔が見えることだけではない。
社会実験さえも可能にする。
つまり、大規模すぎて有効性が立証しづらい社会事業を、単位の大きさを変えた場で試してみることができるのだ。
ヒトが動きやすい単位。スピードがあり、企画、実施、検証、改善のプロセスを実際に見て取ることができる。

そもそも、一極集中による国の統治など、
F.テイラーから始まる組織進化の歴史から見ても、生物進化の環境適応の歴史を見ても、
垂直構造組織におけるトップダウンの全体効率化などもはや通用する時代じゃないんだ。

現在は、複雑になりすぎた社会経済構造に対応するための多極中心型組織でなければ全体として機能しない。
ようやくネットワークインフラの整備が本格的に進み、多中心システムの稼動条件が揃いつつある。
今こそ、地域の特徴を認め、それぞれが個性を持って多様性を保持しながら、かつ全体として整合性を取れるような地域中心ネットワーク型の国家経営体制へ移行すべきだ。

もはや受身で東京からの指示待ちで日本全体が機能する程この国は簡単じゃない。
型にハメ、ごり押しで効率化を掲げモノとカネによる経済発展を目指した時代は終わったんだ。

地方の、地域の活動から、人間の在るべき生活の姿を想像していかなければ、
生物生活環境にとっては加速が過ぎた現在の過剰圧力社会はいずれ破綻するだろう。
無理があるんだ、そもそも。

他の地域の出来事だって他人事じゃない。
新潟だって、阪神淡路大震災の教訓から災害前対応をしっかり進めていれば今回の被害規模が格段に違ったハズだ。

特徴のある地域地域がそれぞれ独自路線で成長を図り、かつネットワークで結合され互いに影響を及ぼしあい、そして学びあう。
複雑な社会状況にもそれぞれの得意要素でどこの地域であっても瞬時の対応を可能にし、全体として整合性をとりながら、身の丈に合った発展を、地に足の着いた発展を持続していく。
散らばる個性を認めかつ全体として一つになって学習しうる組織でなければ、自ら加速させた複雑さに飲み込まれてしまうんだ。

貴方ならこの考えになんて応える?
確かにそこに生きるヒトの、生活、生き方、文化、を、決して机上ではなく現場で感じるモノから述べてくれる人、
意見反論をお待ちしています。

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November 03, 2004

二人でいるってこと

口説くだとか、付き合う関係を維持するために我慢するだとか、
なんか根本的に無理無理な気がする。

そらもちろん、相手がいることによって初めて生まれる関係性の中から生じる幸せを目指して、学んでいかなきゃいけないこともある。
だけど、相手を繋ぎ止めることは直近の目的にすら不足で、無理をしたその先に幸せなんて在り得ない。

だって、素直に受け入れられる幸せが一番のそれだろうから。
自分の感覚に素直に馴染まない幸せなんていずれ気持ち悪くなるだろうから。

だから、自分にできることは想うコトを素直に表に出すだけ。
もちろん、独りよがりでなく相手を視野に入れ相互関係を意識した上で。

それで、相手が共感してくれて、二人でいることによって求め得る何かを感じれたなら、一緒にいればいい。
時には、無理の無い背伸びにも挑戦しながら。

相手の為じゃあない。
自分の為に、相手と人生を共有できたら嬉しいと思う。

理想に過ぎない、って言われるかもしれない。
けど、前述の様に、最初から諦めて追い求めない理想なんて意味がない。
夢の世界に生きるわけでもなく、存在論的にも自分はここにいるのだから。

付き合うって概念をめっためたに破壊されてから半年。
新しい恋愛観をなんとなく考えてきて最近ちょっとそういうコトを考えてみた。
まだまだ実践には程遠い・・・

  

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理想を鍛え叶える方法

”理想”は、手が届かず夢に見て終わらすモンじゃない。
いずれしっかりこの手に掴むために心のどこかに常に構えておくモノだ。

主観的な暗黙知(感覚)を表出化し、他者との共同化を通じて客観的な形式知に変換し、
それを表の世界の要素と結合させてまた本人に戻す(内面化させる)プロセスだって提唱されてんだ。
(野中郁次郎「知識創造企業」参照)

自分のどこかに確かに存在する、感覚そのものである”理想”は、決して閉まっておくモンじゃない。
恥ずかしがらずに素直に晒して、鍛え上げるものですらあると思う。

人間は、矛盾し得る、二元論(デュアリズム)ではない二面性(バイラテラル)をその性質として抱える”知”を生み出し現実世界に活用しうる、非合理的な存在だ。
矛盾の中にこそ、知を創造できる可能性があると、花村邦昭は言う。

俺らは、自身の感情感覚でもって、矛盾を許容しうるんだ。
キレイ事の中になんか、救いの手は存在しない。
素直に、かつ多元的に、物事を見つめ受け入れることによって、
矛盾すら新たな価値観として吸収し”理想”の糧にできる。

それが一つのオリジナルなステップアップ。

矛盾だってヒトそれぞれ。
誰かに無理に理解してもらう必要なんてない。

ただ、自分のために、自分にとっての矛盾は目をそらしちゃいけない。
理想は、きっと矛盾の先にある。
複雑さに負けない、天衣無縫とも言える姿をその奥に隠しながら。

  

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