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December 2004

December 31, 2004

自分が立つこの地と存在する空間

NYC02NYC01
あんまりにも寂しい24日だったからってワケじゃあないけど。
去年のクリスマスを思い出していた。

カナダに交換留学中で、学校の冬休みの12月に3週間ずっとNYCにいた。
別にずっといる必要もなかったんだけど、最初と真ん中と最後に会う約束があったから、いったん帰ってまた来るものダルイしユースを転々としながら結局ずっとNYCで過ごした。

観光で時間を遣いきりたくはなかった。せっかくの冬休みだったけど。

友達らは、ヨーロッパ回ってサッカー観戦ツアーしたり、ワシントンで建築物眺めてきたりしてたけど。んでクリスマスにNYCで俺ら皆で集合してロックフェラー行って呑んで玉突いてブロードウェイでダブルヘッダーして買い物して。休暇を謳歌したわけだけど。

いや、もちろん俺だってNYCに居る間一通り観光ぐらいした。
けど、あそこって一人で観光するよーな街じゃないね。友達と遊ぶ街だ。買い物してクラブ行って酒呑んで。

あの頃の俺は、観光に時間を遣うよりも、考え事がしたかった。
いつもと違う環境にこの身を据えてみて、身体を包むその異質な空気を素直に取り込んで、味わえるちょっと違った感覚に身を委ねて、想うがままに悩んでみたかった。

だから、ひたすら一人で街中をブラブラしたり、本屋で半日ぼけーっと好きな本を選んでは読んでみたり、スターバックスで電子辞書使いながらビジネス記事をずーっと読んでみたり。

味気ないビル郡をボーっと眺めながら、
”何も無い空間”でもそこに建物があると建物が”無い”空間になるなぁとか、これを創ったのはどんなヒトなんだろうとか、それとも街がヒトにこれを創らしめたのか、とか、考えて座り込んでみたり。

自分が立っているこの場所は地球上のどこに当たるんだろうって思ったり。
それってどうやって決まるんだろうって思ったり。

悩んでたのは、将来自分がしたいコト。

結局学部の頃の就職活動では自分の路を見つける事ができなかった。
だから内定断って修士に進んで、今までしたことなかったコトを経験したり、考えたり。

留学の経験を機にひたすら今まで自分のしたことを考え直してみた。

グラフ理論の授業での現実ケースのモデル化や組織論の授業での組織論的現実ケースの解釈のプロジェクトで自分が学部の時経験した自治体での研究を当てはめてみて。
自分がやったことのイミを別の視点から真剣に具体的に考え直してみて。プロジェクトケースを共有するために日本の風習を一からメンバーに説明したりして。思いも拠らない指摘をもらったりして。

せっかくカナダにいるってのに日本語でひたすらエントリーシート書いてみたり。
英語のエントリシートを添削してもらって全部真っ赤になった文章を一から書き直してみたり。

将来の夢を友達と喋ってみたり。おぉ世界的な企業の名前って共有できるやんとか思ったり。
ヒトを紹介してもらって将来をどうやって決めたらいいかってナヤミを聞いてもらったり。


もともと留学だってする気なんて無かったし初めは話も蹴ったんだけど。
色々インターンとかしてみたかったしもっかいちゃんと就活したかったし。
3月4月なんかに日本帰ってきたら受けられない企業もいっぱいあるし。

けど、将来決める大切な時期に半年もの時間を海外生活に使うって決めたからには、その選択をしたからこそ得られるナニか、他の選択からは得られないナニかを求めて、時間を過ごしてきた。
だからこそそんな生活をしてみたわけで。

・・・

そんなこんなで、現在の俺は遠い将来も近い将来もやりたいことがあって、進みたい路もあって、とりあえず入り口だけは決まってる。

年の終わりってことで今までを振り返ってみて感慨にふけってみても、ちょっとくらい一人でしんみりしてみたって、根拠の無い不安は払拭する事が出来る。自分を信じる事ができる。まだ見ぬ将来に希望を描くことができる。

そう思うと、アノ時悩んでみてよかったなぁって思う。

自分の思うとーりに時間を遣ってみてよかったなぁって思う。


最近就活生と会う機会がちょこちょこあったりして、どうやって働きたい企業を探すのか、なんて話をしたりするけど。
大丈夫か?不本意に周りに流されてないか?自分の意思の源泉はほんとに自分か?違っててもそれすら気付けていないことないか?

ちょっと路を逸れる事なんて怖がる必要ない。
ちょっと周りと違うことを選択し受け入れることに躊躇する必要なんて無い。

自分が自信をもって信じてやれるなら。それに責任を取っていいと自分で思えるなら。
そうすることで得られる自分にとっての一番の幸せを勝ち取りたいと思うのなら。

好きなよーにすればいい。
思うとおりに悩めばいい。

思うとおりに時間を遣えばいい。

結果は、そうしてはじめて、ついてくる。
当初の予想とは違った結果かもしれないけど。それはその過程があったからこその結果だから。受け入れるに値する価値があるはずだ。


俺にとって、今の身分での時間はあと3ヶ月。
やるべきことや課せられてることは山ほどあるけど。

さて、来年はどうやって時間をつかおうか。

  

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December 24, 2004

クリスマスイブ

なんで24日にこんなモン更新してるのかって事実は置いといて。
いやまぁ他にする事が無いからなんだけど。

夜9時頃コンビニに買い物行きました。晩ご飯無かったから。
んで弁当やらパンやらお菓子やら色々買い込んだんだけど、
レジで清算ん時この上なくつまんなそ~な店員が商品袋に詰めながら一言。

店員:「お箸はご入り用ですか?」
俺:「ハイ、お願いします」
店員:「おいくつですか??」

おおぃ。
弁当は一つだろが。なんだ「おいくつ?」って。
カップラーメンがもう一人用に見えたんかい?でもそれにしちゃあ寂しい商品ラインナップだろ。。。

「「え、オマエも一人なんか?」」

ってココロの声が聞こえました。

だから
「いや、一つでいいです」
ってちゃんと答えておきました。

さーて、ラピュタでも見て感動するか。

ところで、ハウルは死ぬほど良かった。3回ほどホロリ。
メッセージが多すぎて想うところが多すぎて把握するのに時間がかかりすぎて、
まだまだココロが落ち着かないけど、そのうちまた感想を書いてみようと思う。

  

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December 21, 2004

前向きで自主的な恋愛

「アナタにとってアタシってナンなの?」

こんな台詞を言った事があるだろうか。
俺はふと、昔言われたコトを思い出した。

なんてクダラネー質問だと思う。

いや、言って欲しいことは分かるから。マル分かりだから。

大切な存在だとか、想いをかける存在だとか、自分にとって無くてはならない存在だとか、安らぎを感じる場所だとか、唯一甘えられる人だとか、一番大事にしたい人だとか、
まぁキリが無いくらい言って欲しいんだろうけど。

不安になったココロを癒して自分の恋愛を確認して安心したいんだろうけど。

それって恋愛に必要でしょ、って非難する人がいるだろうけど、
敢えてそれはダメな質問だと俺はここで言う。

いや、勿論、時と場合によってちゃんと言うよ。そういう大事なコトは。
相手を想う気持ちを言葉で伝えることを怠って成り立つほど、掛ける想いの深く重い人間関係は簡単じゃない。

けど、自分から相手にそれを求めちゃいけない、って思う。

だって、
それって自分が相手にどう接してるかで決まってくる問題だろ?

貴方が俺に対して守ってくれるように優しく接してくれてるなら、その質問に「俺が必要だと思う優しさと癒しをくれる存在」って答えるだろうし、
貴方が俺に良きライバルの如く対等に接してくれてるなら、「互いに高めあえる最高の親友でもあれる恋人」って答えるだろうし、
守って欲しくて甘えてきてそれによって癒しを感じるんなら、「守ってあげたくてずっと大事にしていきたい存在」って答えるだろう。

要は、貴方が、俺に何を感じ、何を求め、何を見て接しているかが大切だろ?

こと恋愛関係においては、一方的な依存関係は成り立たないと俺は思ってる。
だから大事なのは、自分が相手に何を求めているか、何をしてあげたいと思っているか、どんな関係を築いていきたいのかを、自分の価値観と相手の価値観を踏まえてきっちり理解していることだと思う。

おれは、「自分の感情を理解する」って表現を使う。

ココロの底から感じるもやっとしたナニかでも、それがどこから来るのか、自分はどうやってそういった気持ちを育んできたのか、育ちや経験にその源泉を求め、具体的に整理していければ、自分の”感情”であっても判れるものだと俺は思う。

そしてそれがきっちりココロに留めておけるなら、どんな場合でも相手のことをきちっと考えてあげられる。
離れていようが、ケンカしようが、コンパに参加しようが、ちゃんと相手の好きなところ、大事なところを分かっていれば、いつでも一番そのヒトを大事にしてあげられる。
そうすれば、相手を束縛する必要なんてどこにもないし、信用によって互いの行動範囲も広がり、より多くのものを共有していける仲になっていけるだろう。

それが、たとえ長年付き合おうが、関係を絶えず進化していけて、いつまでも相手のことを大事に思っていられる関係を作るために大事なことだと思う。

不安だからって相手から無理に引き出すもんじゃない。
自分が一生懸命接して与えて、そのリアクションとして初めて受け取れるものだ。
お互いがそれを理解しているなら、とても心地いい関係でいられると思う。

  

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ちょっと素直なココロ

ココロの底から感じたナニかをココロの底から全て吐き出したらその後は、
ココロは大きくなるのかな?狭くなるのかな?

もっともっと感じていたくて、容量が大きくなるのか。
それとも、麻痺しちゃって縮小しちゃってくるのか。

だいち、ココロを客観的に見れていると思えるココロはそこに含まれていないんだからやっぱりココロは全て見えてないわけで。

でも全てを吐き出してみたと感じることはできるわけで。

大きくできるか小さくなっちゃうか知る由もないけど、でも直感で、ココロの底から吐き出す回数が多い方がナンか素敵な方向へ向かえる気がするから。

だから次なる未知の、どことなく不慣れでハガユクて気持ち悪くても、でもでも感じたことない感情をココロの底から身震いがするほど感じてそれを後で笑えるように、全て受け入れて吐き出して生きていきたいとおもう。

  

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December 16, 2004

恋愛における”思いやり”について本気出して考えてみた

恋愛すんのに一番大事なものって”思いやり”だと思う。

じゃあ”思いやり”ってナンだろ。

俺は、”相手のコトを考えてあげること”だと思ってる。

これって単純なようで結構実践するのが難しいコトだと思う。
だって、ヒトって割りと例外なく自分が一番可愛いから。

でも、ヒトは独りでいるより二人でいる方が幸せになれる。
それは互いに”思いやり”を持ち合う関係でいられるから。

それってどゆことだろ、って事について前から思ってる事を少し書いてみる。


”思いやり”には、自己犠牲だとか、献身、貢献、尽力、といった要素が少なからず含まれる。
要するに、自分よりも相手を優先させる、といった考え方だ。
優しくする、なんてのはその代表格かな。

けど、コト恋愛に関してはそういった要素だけじゃ”思いやり”は成り立たない。

それは、恋愛は決して一方的な関係じゃないから。
自分が満足すればいい、とか、相手に満足して欲しい、だけなんて、いくらそれが相手ありきの感情だからって、それじゃあまりに他人行儀の様な気がする。
一人相撲ってゆうか、深いところで相手を必要としていない、みたいな。

じゃあ恋愛における幸せってナンだ?ってなると、
俺は、『自分のココロを預けられる相手と一緒にいれること』だと思う。

自分のココロの一部を、自分の分身を、自分の支配の及ばない相手のココロに預けて、預かってもらって、置いといてもらう。
それが、相手のココロを直接感じられる、相手に一番近付ける方法。
そして、自分が独りでないと、実感する方法。
預けた無防備でむき出しの自分のココロを、相手のココロで時に優しく愛でてもらって、包んでもらって、安心を与えてもらう。
日常生活における他の場所で自分がいくら傷つけられても、磨り減るまで働いたとしても、ココロを預かってくれるヒトがいればいつでもそこに帰ることができる。だからこそ、仕事や勉強で自信を持って限界近くまで頑張る事ができる。そこに帰ればいつでも癒してもらえることを確信してるから。自分には帰るところがあると、思えるから。

それこそが、恋愛の醍醐味じゃあないだろか。
独りでは決して感じることの出来ない、相手のココロに触れることで流れ込んでくる、愛情って類の感情。
それを感じれた時、あぁ幸せだなぁ、って言えると思う。

だから俺は「どんなヒトがタイプ?」って聞かれたときに、「うーん、包容力のあるヒト」って答える。
別に守ってくれるとか引っ張ってくれる相手ってイミじゃなくて、自分のココロを預かってくれるヒト、って意味。
まあ要するに甘ったれぇなんですわ。

けど、これってすっごいリスキーな方法。
だって、預けたココロはむき出しに晒された状態で俺の手に届かない所にあるわけだから、相手の意向一つでいくらにでも扱われる可能性がある。
痛めつけることも傷つけることも可能だ。俺の意思とは関係なく。

実際ぐちゃぐちゃにされたコトもある。
信じて預けてたものの、大事にしてもらってたと思ってたものの、実際そうだったけど、そうじゃない部分があって、それを知った瞬間に、握りつぶされたように跡形も無く砕け散った。
いや結構しんどかったけど。

その意味で、相手は心底信用できるヒトじゃないと無理だ。
ある程度自分の価値観で相手の価値観が判断できて、そのヒトと創る関係において互いに求めるモノを分かり合えて、その上で落ち着いて安心してココロを預けれる相手。
信用、ってのも、求める包容力の1要素だなぁ。

で、自分がそうしてもらうからには、自分も相手のココロを預かって大切にしてあげなきゃいけない。

ただ預かるだけじゃない。
自分の振る舞い一つで相手が深く深く傷ついてしまう可能性があることを自覚した上で、相手のココロを引き受ける覚悟を決めなきゃいけない。

時には自我を押さえつけてでも、相手のココロを守り、包み、安心させてあげることを優先しなきゃいけないトキもあるだろう。
相手の求めるモノや価値観にまで想いを巡らせて、自分が取るべき言動を選んでいく必要がある。

それは、自分に課せられた当然の責務。
対価は、自分のココロを預かってもらうことで貰うことができる、ココロの安心。

けどそれは当然、我慢のし過ぎで自分が傷つくモノであってはいけない。
そこまでのモノを求める相手とはバランスが取れない。ってかそんな相手は初めから選ばない。
自分も幸せを感じ、相手にも感じて欲しい、って素直に思える相手がイイ。

自分のタメに、そして同時に相手のタメに、決して片方に拠らないように、「対等の関係」で、互いが幸せになるために、互いに気を遣える間柄。
それを実践し保つために注ぐべき自主的なココロの働きかけ。考えてあげること。

それこそが、”思いやり”だと、俺は思う。

基本は、相手のタメに、そして同時に、自分のタメに。
独りでは到達し得ない幸せを手に入れるために、”思いやり”を持ち合う関係。
それを求めて恋愛するんだと思う。


そしてそれが成り立つ条件が、「対等な関係」だ。

どっちかがどっちかに依拠するようじゃあ、一方的に与えるだけの関係になってしまう。
与えるだけで貰えなかったり、貰えるけど与える事が出来なかったら、なんか虚しくない?
互いにココロを共有して影響を与え合うからこそ、独りじゃないナニかを感じられるわけで。

そもそも、自分のココロを預かってもらうには、相手に預かってもらうだけの土台と度量が必要となる。
預かってもらえる器の強さがなけりゃ、安心してココロを差し出すことなんて出来ない。
優しいだけのヒトには無理だ。

だいち、多分そんなヒトってのは、自分も相手を幸せにする、って価値観が備わってないヒトだろから、一緒にいても安心をもらうことなんて出来ないんだろな、って思う。

もしも、この世で至高のイイ女性(どんな定義か知る由も無いけど)に出会って、このヒトを守っていくだけで俺は幸せだ!って思えるなら、上述の”思いやり”議論は全訂正せにゃならんけど、未だそんな神がかったヒトに出会えたコトはないからまぁ考えないことにしよう。


長々と恥ずかしげもなく書いたけど、まぁよく考えりゃこれはすごく私的な見解で。一般性なんて皆無で自分の恋愛観を述べたに過ぎないけど。

でも、”思いやり”って一言が含む意味ってすごく大きくて、人間関係においてすごく大事なコトだと思う。
対等で思いやり合える相手といられるって、幸せなんだろなぁ。

理想論だキレイ事だ!って切り捨てられるかもしらんけど。
でも、実際傷ついたコトもあるけど、そんな自分の恋愛観を変えていかなきゃいかんって一時思ったこともあるけど、やっぱし自分にとって一番大事なトコロは捨てられない。形を変えて成長させていけばいい。

理想論だって構わない。
理想すら求めるコトを忘れたような寂しい輩に何を言われようが構わない。
ただ、自分が大事にしたいところだけは、柔軟性を保ちつつも、守っていきたいと思う。

もちろんまだまだ具体的な理想の関係を描けるには至ってない。

もうすぐ学生→社会人って大きな立場の変化があって、見るモノ感じるモノが大きく変わっていく。
そんな中で、将来に対する理想も変化していくんだろう。
相手に求める要素も変わっていくと思う。

けど、基本は”思いやり”。
それだけは、いつまでも変わらない。

色んなヒトと出会い話して付き合っていく中で、そんな相手を見つけていきたいと思う。

  

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December 08, 2004

昔ちょっと思ったこと

恋愛すんのに一番大事なものって、思いやり、だと思う。

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この世界で”生きる”こと

眼前の世界が”抽象的に””見える”ってどんなんだろう。
感じるってコトなんだろか。それとも、信号として受け取り脳内で処理してるんだろか。。。

シキは天才だ。どうやら世界の全てが数的に把握できるらしい。いやもはや”数的”など俗的な表現すら当てはまらない。
”理解”という思考が届かない点へ到達しているようだ。科学的に表現するならば、哲学や認知科学において説明し得ない(世の中に該当する「言葉」が無いだけかもしれないが)領域、つまり内的システムモデルといった概念すら当てはまらない領域と融合しているのだろうか。
四次元が見える、なんて聞いたことあるけど、そんな感覚なんだろうか。

まぁそんな人間まだ会った事無いからヨシとしよう。

ただ、数的ではないにしろ、現存する言葉を借りるならば、社会心理的な抽象で世界を構築することはあるようだ。

俺はハッキリ天才とは一番遠いところにいる。
直感が優れてる訳でもないし、理解が早いわけでもない。
だから一つずつ積み上げてきたつもりだ。
その場その場でホンキで取り組み、感じることを一つずつココロに積んでいって、ヒトの話を聞きながらゆっくり消化してきた。俺なりに。
その結果、見て経験してきた世界に感じるところがあって、こうやって言葉に直したりできるようになってきた。

だけど、一足飛びにそこへ飛び込めるヒトがいる。
どうやら根拠となる実経験はないようだ。
ただ、俺が蓄積した経験を”統整”(統整原理:「内部観測」参照)するところを、最初に”規範”として頭に構造化しているみたいだ。

これも一種の天才か?
うーんでも天才って言葉使うことには何のイミもないし。

ただ思うのは、見て感じるところが違うんだろな、ってこと。
右脳使う人は芸術家肌とか言うけど。脳内器官の発達状況によって、ヒトそれぞれ感じ方が異なるんだろう。
同じ景色見たって描く絵は皆違う。勿論描写能力の制約もあるけれど、自分の想いのフィルターを通して世界を取り込んでるからだろう。

何が言いたいかってーと、”生きる”楽しみ方ってなんだろな、ってところ。

最近、自分が積んできた経験を、統合的に表現してくれる考え方に触れるのが楽しかった。
思うところが色々あって、自分なりに筋を通して理解してみたら、既にそれをもっと引き上げる表現で統合化している学問や考え方が世の中には既に存在していた。
うーんすごく魅力的。
さらに見ていたら、数あるそういった考え方や学問は、表現こそ違えと、皆同じことを言っているようにも見える。
それをもっともっと突き詰めると哲学とか近代宗教とかになるのかな。

でも、多分俺は抽象理論をこねくり回すだけの世界じゃあ生きていけない。
本に囲まれてだけなんて生きていけない。

だって俺ここにいるもん。

いずれゆっくり書いてみたいが、生活の本当の豊かさって、『生身の人間同士のやり取り』だと思う。
以前、社会は精神的充足の方向に動いていく、ってコトを書いたけど、今の経済活動はナニか大切なモノを忘れて突っ走ってるようにしか見えない時がある。

いーじゃんもっとゆっくり構えてみようや。
もっと人間臭く、素直に思うところをぶつけあって、汚いところも見せながら、それでも笑いながらやっていこうや。
人間関係が疲れるとか、浅く広い交友関係がラクだとか言わないで、一緒に傷つくくらい深く付き合っていこうや。

至高の抽象理論だけじゃあ人間は動かない。
恩も感じるし、人情もある。共に過ごした時間分だけ仲が深まって、信頼ってモンができてくる。
理屈なんてそこにはない。最も非合理な生命体である人間だけに許された、感情の特権だ。

もちろん、何の理念も方向性も無い場当たり的な生き方を推奨してるわけじゃない。
深く濃く生活を過ごした分は、頭の中に刻み込んで、自分を形成するために使いたい。
意識と認識のステップを登りながら、理想的な高みを描き目指してみたい。

具体と抽象。帰納と演繹。
どっちかに偏っても楽しめない。
俺は、両方欲しいと思ってる。

人間として生き、人間として関わり、人間として生活する。
けれどその中から、あるべき経済活動の方向性を見出し、本来の人間性と乖離の少ない発展社会を形成する手助けをしていきたい。
目指すべきは、豊かな個人と、それが形成する現実の世界。

来年からの職場ではそれが実現できると思ってる。
少なくとも、それに近づく感覚を磨ける仕事に関われると思ってる。

だから、自分のパートナーを探すなら、その両方を解ってくれるヒトがいいな、と思う。
まあそれも一緒に創り上げていくモンなんだろけど。

  

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December 03, 2004

時間経過なんて非線形

While Experienceing reality directly, time seems to disapper.
When there is no time, there is no fuzziness. The feeling of time always implies incompleteness.
[Vladimir Dimitrov]

ここでのdirectlyてのは、既存の事象に思いを巡らし評価判断する間も無く、という意味でのdirectly。
筆者は、「現在の瞬間を経験すること」と「既に過ぎ去った事に意識を向けること」は同時には起こりえないと言っている。
だから危険な情報を直接感じても認識判断するのに意識を切り替える必要があるから即時反応が難しいんだと。
そこには時間概念なんて成立しない。その瞬間瞬間に生きてるんだから。経時的な軸なんて存在しないんだ。

そういった直接経験が在り得るのは、危険信号感知時だけではない、とも彼は言う。
すごく好きな人と深いやり取りをしてる時もそうだってさ。

まあそんなもんか。
冷静な恋愛なんて在り得ない。
その状況を冷静に判断してるようじゃあ、その瞬間の状況には目を向けてないってこと。
その瞬間を体全体で感じようとしたら評価判断なんて成り立たないんだろね。

何言いたかったか良く分からんけど、上記文読んでちょっと思った。
別に何があったワケでもないけれど。

  

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December 02, 2004

曖昧な世界・・・

Dive into the centre of your being, unto the depth of your consciousness, in which the whole infinite world is contained!
[Vedanta-sutra]

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