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January 2005

January 29, 2005

リズム

07生きてく、ってか日々すごしてく中で一番大事なモンの一つが『リズム』だと思う。

それは音楽を聴く5分間のリズムもあれば、生態バイオリズムみたいな何十年単位のリズムまであって。
それぞれの周期の好適なリズムが個人にそれぞれ固有にあるんだと思う。

それは生来備わったもんじゃなくて、もちろん遺伝子レベルでは適合性ってあるのかもしらんけど、
それよりも育ってきた環境に育まれたモンじゃないだろか。

日常で過ごす時間の区切りとか、好きな音楽とか、呼吸の周期とか、スポーツとか、ご飯食べる間隔すら、体内にリズムを創っていくんだと思う。

で、そういったリズムがタイミングを生み、つくる。

意思決定とか、踏み出すタイミングとか、そういった重要な瞬間の微妙なズレと適合ってのは結局のところ直観による決断になることが多くて、その直観が頼ってるのが体内に脈々と流れるナニかのリズムなんだと思う。

自分のリズムが分かれば、自分の好きなタイミングが解る。
いつ自分は調子が出せるのか解る。
堕ちてる時どうやって回復させたらいいのか解る。
休み時が解る。

体内の廻りを、リズムとして捉えて、身体の動きと同期させて、心地良く日々を過ごしていこう。
メリハリの効いた歯切れイイ生活を送っていきたいもんだ。

  

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January 28, 2005

つくってつくられる社会と自分

社会は個人に先行していた.

今皆がココロに抱いてる夢とか希望とか嗜好とか.それらは自分の中で自分が創り上げたものだっておもってない?

俺らは社会の中に産み落とされた.
初めて自分の目を見開いた瞬間から見えるものは,聞こえるものは,感じるものは,全て先人達が作ってきたこの社会に属するもの.

その意味では,俺らは社会に生かされていた.
社会が提供してくれるものの中で足掻いてるに過ぎない.
だってそれ以上の環境にはいられないから.

既にあるモノを見て,既に書かれた本を読んで,つくられた医療システムの中で治療を受けて,造り上げられたインフラを利用して,整った体制の下で提供される食事を採って,俺らは生きてきた.

もちろんそれらを受容する俺ら自身はオリジナルかもしれない.
受け止め方で解釈の仕方で全てが変わりうるから.
個人にとっての世界なんてそれぞれ唯一なんだから.

けど,大事なのは,一人で生きてるフリしてたって,それらは全て与えられて形成されたものなんだって解ること.
この先どんなに個人的に生きていこうとしたって,社会に背を向けて行動してみせたって,それらの土台は俺らが回りに与えてもらった環境による産物でしかない.

社会を離れたら,生きていけないんだよ.
社会を視野から外したら,自分の存在すら見失うんだよ.

なんで今自分はこうしているのか.
なんで今自分はこれを考えてるのか.

素直にそれが創られてきた過程を社会に見出して,個性の時代だとか訳分からん主張に意固地にならず,もっと公を見てみたらいいと思う.

んでそれは今までの話.
これからは,俺らが社会に先行する番だ.

もちろん俺は先行してた社会に創られて今ここにある.

けど,人間は言葉を作り出して,文字を作り出した.
目に見えない「知」を形式化することで,俺らは「知」を蓄積することができる.

先行された社会の上に立って,それにさらに蓄積する形で,今度は俺が社会を創っていってやる.
吸収してきた周りの環境からの知恵と知識を自分の中で混ぜ合わせて,自分にしか生み出せないモノを社会に投入して,その方向性の一助を自分が担う形で社会に関わっていってやろう.

それが,自分が社会に属し,社会の一員であり,この世界に生きてると実感できる一番の方法じゃないかと思う.

人の“帰る場所”は,誰かの胸の中にしかない.
けど,俺が“出て行く場所”は,創り創られてきた社会にしかない.

もちろんそれには色んなスケールがある.

土木を専攻としてきた俺にはどうしても社会の大枠を創っていきたい想いがある.
具体的なインフラとそれを利用する仕組みを創り上げ,人が豊かな生活を送れるための仕事をしよう.
モノに飽きた人たちが満足できる生活を送れる社会の方向性を引き出す役割を担っていこう。

そうしたら,20年後30年後に,自分は何をして生きてきたのか,胸を張って言える気がするんだ.

  

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January 25, 2005

帰る場所

『人の帰る場所は誰かの胸の中にしかないんだよ』

・・・

「冷静と情熱のあいだ」の映画版で、宝石店の女性店長が彼女に向かってゆった一言。

生きるコトの真理がこんな簡単に言い表せるなんて思ってなかった。

ヒトはヒトと関わることを無くしては生きていけない。

大切な存在を求めて。。

  

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したい仕事

chizu01内定先の配属部署選定面談のためのアンケートシートを書きながら思ったこと。

◇ 新しい社会の仕組みを創る仕事がしたい
◇ これからの社会の方向性を模索し自分もそれを創る一員であると感じられる仕事がしたい

これにつきる。

地域に入っていって現場で住民と協働して行う研究をしてると、たとえそれが工学に基づく研究だろうと、否が応でも社会学を視野にいれてしまう。

「どの様な仕事がしたいか?」
「キャリア形成をどう考えるか?」

こんな質問に対して思い浮かんでくるのはやはり、「どう生きるか」を基軸とした想い。

◇ 社会において働くということの根源的な原理欲求は、モノ的欲求を満たし終えた近代産業化社会において、これからヒトはどのような方向に向かって生きていくのか、社会を創っていくのか、その方向性を見てみたい、その社会の一員として全体を形作る一助を担いたい、というところにある。

◇ 企業もヒトも、その活動の基盤となる社会が無くては存在し得ない。日々の活動が、社会の潜在的構造における文化や規範、果ては自然といったより深層との関わりにおいてどのように展開されるべきかを追及したい。社会の発展と共に歩み、利益を上げる、そんな企業活動の在り方を実感できる部署にて仕事がしたい。

企業は利益を求めて一人歩きしてないだろうか。
売り上げを上げるっていうものすご直近の目的しか見えなくなってないだろうか。

そもそも何故企業は創られた?

◇ 人は個人的日常生活的な欲求や意識を根源的に持ち得る生物であり、それを叶えるために共同的意思の下に地域性を媒介とした社会を創りだし、近代化産業化の過程を経て現在の世界を発展させてきた。

その存在意義を見失った企業は、”社会”の利益とソグワナイ方向で活動してる企業は、遅かれ早かれ生存していけなくなる。

自分たちが生きる”社会”のために。
”豊かな”生活を実現するために。

地域に根付く必要なく、土地を媒介とすることなく、「コミュニティ」の形成が可能となってしまった現代。

人間として生きる”豊かさ”を、皆、忘れてしまってないだろうか。

◇ 人間同士の範域を共通した共同意識に基づくやり取り

これを求めて、社会で生きていきたい。

ヒコウセキを積んだ天空の城で彼女は叫んだ。
「ヒトは土を離れては生きていけないのよ!」

うーん。深い。

  

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January 18, 2005

社会とは。。。

【ピュシス】physis
〔哲〕〔自然の意〕単に物質的な自然でなく、生ける霊にみちた能動的・有機的なもの。ギリシャ哲学の最初の主題となった。
【ノモス】nomos
古代ギリシャで、法律・習慣・制度など人為的なものをいう語。ソフィストが、ピュシス(自然)に対するものとして取り上げ、これによって人間の認識や生活の相対性を指摘した。
(三省堂提供「大辞林 第二版」より)

【自然科学】:ピュシスを研究する学。自然は人間に対してまったくの所与。人間はこれに関与しておらず、まったく客観的に自然を認識することが可能とされる。
【社会科学】:ノモスを研究する学。人間自身がつくったものであるため自然とおなじ意味で客観的に認識することは不可能とされる。

【広義の社会】:「自然」に対するものとしての「社会」
【狭義の社会】:複数の人々の間に持続的な相互行為の集積があることによって社会関係のシステムが形成されており、かつ彼らによって内と外とを区別する共属感情が共有されている状態。
(富永健一、『社会構造と社会変動』より)

だってさ。

やっぱ俺は理系だわ。
全体論的には「システム」って見方しかできん。。

  

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自分で自分を守るために

「行政の怠慢だ!」「行政は何してる!」

こういった文句を聞いたことがあるだろうか。
なんて馬鹿馬鹿しい。。。ため息がでるわ。

もちろんどんな状況で言うかによるんだけど。
もちろん俺だって行政に対する不満はいっぱいいっぱいいっぱいあるけど。

けど、どんな内容に対してだろうが、基本的にそれは住民自身の責任だ。
権利を保持しながら行政チェック機能を発動させなかった市民自身の怠慢だ。

それを分からず何かある度に今まで見たこともないような奴がイキナリ出てきて市民の代表ヅラして声高に行政を批判してるのを見ると、あぁ日本って国はこんなんか、と思ってしまう。

収益を稼ぐことを直接の目的とする民間企業と違い、行政の目的は住民の幸せだ。
安心して暮らせる安全で快適な生活環境を提供する事が行政の本分のはずだ。

だから、行政は住民が求めるモノを提供する。
予算の使い方も、基本的には住民の合意が取れるような、選挙で票を獲得できるような、住民が賛成するような構成になっている。

だから、ある日突然自然災害が発生して行政がそれに対する備えを全くしていなかったからといって、それを責める権利は住民側にはない。
だって、災害対策費に予算を使うよりも、日々の生活のためのインフラ整備や行政サービスにカネを使うよう賛成したのはお前ら住民自身だろが。

こういった住民のカンチガイ論争は「非日常的」であり「不確実性の高い」自然災害が発生する時に起こりやすい。

いつ起こるか、どれくらいの被害が発生するのか、どういった状況に見舞われることになるのか、それ以前に本当にそれは起こるのか、といった不確実な要素が他の種の懸案事項よりも多いため、行政もそこにお金を使うにはそれ相応の努力が必要になるのだ。

”住民”の生活を守る事が行政の本分だ。
しかし、本当に住民を守るための災害対策費に巨額の予算を割くことは”住民”側が賛成しない。
だから他のことにお金を遣う。
だからイザという事態に対応できないのに、それを”住民”側に非難される。

・・・

だからといって俺は行政側に同情したりしない。

行政のプロなら、物事をどう考えて良いか分からない住民に知らしめなければならないはずだ。

これは卵が先か鶏が先かの議論ではない。
本当に日々の生活に必要なのは何なのか、専門的な見地を分かりやすく住民側に説明し、共に地域の生活を創り上げるという姿勢をもって、住民に媚びるだけの態度は捨てて、地域を主導していかなければならない。

公務員と言う仕事を生活保障つきの安泰業務と考えている輩がいるとしたらもってのほかだ。
自分たちの仕事の是非を住民のセイにする公務員がいるとしたらとっとと辞めさせるべきだ。

地域を引っ張っていくプロであるという自覚をもって、無頓着な住民に話しかけ訴えかける姿勢を常に忘れないでいてほしいと思う。

そして、
住民はその声に反応しなきゃならない。
必死の訴えを右から左に聞き流して都合のいい時だけ反論するなんて権利と義務の混合もいいとこだ。

行政からだけでなく通信や情報システムを利用して情報を集め、本当に必要だと思うことは自分たちから行政に要求しなきゃならない。

自分たちの生活は自分たちで守っていかなきゃならないんだ。

その上で、自分の地域の行政のやり方が気に入らなきゃ、その地域を捨てればいい。もっと自分がいいと思える地域に移り住めばいい。

行政サービスだって比べられて競争して淘汰されるべきだと思う。
住みよいサービスをちゃんと提供している地域は潤って、そうでない地域は廃れていく。これが自然な流れだ。
そうじゃなきゃいつまでたったって公の肩書きにアグラを組んでる公務員は必死に仕事をしやしない。

民間企業は、自分たちの提供する商品を買ってもらおうと必死に努力して、それが実を結ばなければ倒産するしかない実力至上主義の資本市場で戦ってるんだ。

いっくら公平な住民サービスが必要となろうと、それが最低限でいい理由はどこにもなく、住む人を集めて地域を活性化させたけりゃ地域経営を必死に改善させるしかない。

さらに日本国内だけで考える必要もどこにもない。
バカバカしくなるほど整っていない教育制度の下で子供を育てたりしたくなければ、外国に移り住めばいい。
社会保障制度が馬鹿馬鹿しいほど遅れてるこの国で老後をすごしたくなければ、移住先を探せばいい。

俺らはそれができる。
まぁその国のヒトと結婚したり都合何年間住んだりする必要があって自由にとはいかんけど。

ただ、国だって自分たちの国民サービスにあぐらをかいてていい時代ではない。
この国際社会に、国は協力関係を保つと同時に競争関係にあるわけで。人は自分の属する”場所”をもって自由に選択できるべきだと思う。

ちょっとでも他の国で生活してみると、日本の制度やお国柄ってのは当たり前じゃないことに気付ける。
スーパーで買い物して、病院に行って医療保障を体験して、インフラ整備状況を見て。。。
あぁなんて日本って住みにくい国だったんだって思える。

いやもちろん素晴らしいところもいっぱいいっぱいある。
やっぱし生まれ育った国への愛着は大きいし、普段気付かず受容してる当たり前のサービスは無くなって初めてその重要性に気付く。

けど、日本と言う恵まれて自由を与えられてる国に生まれ生活してるからこそ言える甘えた意見かもしれないけど、どの国に生まれようがその国に縛られなきゃならない理由は無いと俺は思う。

顧客(住民)指向性のないあぐらをかいた殿様行政が生き残っていい時代じゃない。
努力が、必要なんだ。


折しも今日は阪神大震災10年目の日。
10年前の天皇陛下の追悼の言葉には、「こういった悲劇が二度と繰り返されることのないよう努力していき」というくだりがあったが、死者の85%が家具や家屋による圧死・窒息死であるとの教訓が活かされることなく、未だ脆弱家屋がそのまま放置されている。ちょっと揺れが来ただけで、即日役場に耐震診断申し込みが殺到するような状況だ。いったい今まで何をしていたんだか。。。

自分たちが安心して生活できる環境を手に入れたければ、誰かが守ってくれるってな幻想をとっととドブに捨てて、どのように自分で自分と大切な人を守っていくかを考え、その実現に公の力が必要となるならばどんな運動を通してでも行政に訴えかけ、それが実を結ばないようならば住む地域を変える覚悟を持たなきゃならない。

こういった節目にしか過去の悲劇を取り上げないメディアも情けないが、
最近はそんな流れの中で東海地震や関東直下型地震の可能性が指摘されている。

多くの地震学者がハッキリこう断言している。
「地震は来る!」

信じるか信じないかは、どの程度自分の生活をホンキで考えているかの度合いによるだろうが。
過去の悲劇を同様に繰り返すとしたらそれはバカすぎてとても救われない民族なんだろな。

地震で命を失う危険性があるならば、少なくともその地域には住まないのも選択肢の一つ。
仕事上生活上住まなければならないなら、地盤のしっかりした地域に家を構え、その上で耐震補強を施し家具固定を行うのが最低限の備えだ。
その上で、食料と水を備蓄し、避難所への避難経路を確認しておき、非常時の連絡の取り方を家族で話し合い。。。

やることは山ほどある。
いつ来るか分からない地震に限ったってこれだ。
明確化されてる問題への対処だってそれに劣らずやることは多いだろう。

けど、人生は諦めたらお仕舞いも同様だ。

自分で自分を守るために。
こういった機会に多くの人がそれを考え直すことを切に願う。

  

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January 13, 2005

ちょっと落ち着いて空間を眺めた時間

NYC005このクソ寒い中野外でコーヒーをすすりながらぼぉっとおっきい建物を見てた。

ヒトは何故建造物を造るんだろうか
普通に暮らすだけならこんなバカデカイもの必要ないのに。

芸術の境地?
いやいやそんな奇麗事じゃあないだろ。

それは多分、建物は急に無くなったりしないから。

一度造ればちゃんといつまでもそこに在るから。
いつかまたそこに行っても、ここに来ても、また同じ”空間”がそこにあると思えれば、安心できるから。

無形なヒトのココロと違って。

んで多分、その空間にヒトが一人もいないんじゃ結局寂しいまんまだから、ヒトが集まれる要素を備えた商業施設を建物の中に入れるんだろう。

そして多分、建物自身がヒトのココロの代わりをしてくれることもあると思う。

外在化された物理的物質的な空間占有物のその存在の仕方により、時にそれはヒトのココロの文様と非常に似通うことができて、眺めるだけで視覚から得られる感情認識が振るえだすことがある。

つまるところ、ヒトは何も考える必要も無く単純にそこに在るというだけで何かを感じることがしたくて、寂しいと思うココロをいつでも慰める事ができるように、建造物を造りだし始めたんだろう。

だってほら、建物はこんなにもナニかをココロに訴えてくる。

もちろんそれを視る側のココロが勝手に受け入れ解釈し思い判断してるだけなんだけど。。

  

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January 05, 2005

ちょっとかじってみた社会学

NYC03自分の生きる”社会”って一体ナンなんだ?って思う。

何しろ、社会に対して比較的受動的な存在であった今までの立場から、
ものの数ヶ月で主体的な社会構成員へと属性を変化させることになるんだ。

そんな時、社会学ってのは、理系の俺には実に興味深く映る。

特に、デュルケームの『社会生命』という考え方。

「正常な社会は、歴史的に能動的に社会生命をもち、その本質によって不断に何か新しい創造を行っていく継続的な発達過程にある」
「社会というものが、それの構成諸要素が所与の社会環境諸条件のもとに種々の形態をとりながらも、その本質を保持しながら絶えず生成発展していく歴史的存在である」
(「パーソンズの社会理論」より)

それは、通時的であり時に可逆で時に不可逆な諸現象の認識の仕方。

そういった『集合的生命の力』の及ぶ範域の只中に飛び込み、その作用を全身に受け、文化・社会・人格・行動といった「人間の一般行為システム」の構造へ”変換”を及ぼし及ぼされ活動していく。

”社会”に生き、集合的人間活動の恩恵を受けるが故に受ける制約。

それを前向きに捉え、ある種自分が生きるその方法にとっての境界条件的な理解の下に、これから自分が生きるその”社会”を受け入れていきたい。

  

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January 01, 2005

カウントダウン→そして新年へ

fire留学してた去年を例外としたら、実家で過ごさない大晦日は初めてで。
でもかなり大満足な年越しを過ごす事ができた。
すっごく素敵なカウントダウン。みんなありがとお。

中でも鐘を突いたのは初めてで。
かなり重くて、据え置くには重すぎて、その一撃でたまった全てを清算し発散させ、新たな方向へ向かうココロの中身を整えるのに有効な経験だった。

たった一発だけ突いたその一撃には、
8割:去年の反省とケジメ、2割:来年とその先へ向かっていく想いを、込めた。

去年もらったいっぱいの想いと、新しい感情と、全ての出会いと成果を想い、込め、感謝と労いの感情と共に打ち込んで、いったんのケリをつけた。

そうして蓄積された想いがはじけて自分の周りを舞い、これから始まる新しい季節への前途を照らしてくれるかの如く周囲に発散していった。
鐘の振動が周囲の空気に伝える鈍く細かい音の余韻とともに。

その中で、ココロにぼんやりと描き出す近い将来の俺の像、求め願う像、に少しだけ色がついたように感じれた。

そして見た、焚き火?の炎。

二度と同じ姿でそこに存在することを許されず、次の瞬間には前の瞬間の残像を残しながらも気まぐれにその姿を弛ませる炎は、モノを焼き尽くし気体へと昇華させ世に存在するモノの存在の有無を司る、ある種究極のエントロピーを有する力そのものであるかの如くに、見えた。

その、暗闇の中でボンヤリと橙の色彩を放つ有り方が、俺にはどうしても、清算する力、照らす力、導く力の現象論的な可視世界への写像に見えて、あたかも人間が作り出した時間概念に基づく期間境界を意思を持ってまたぐ人間の意識を代表するかのように見えて、妙な寂しさを覚えた。

この過ぎ去った1月から12月を思い返してみる。
1年ってすっごく濃くてすっごく長い。環境変化の連続と、自分変化追随の連続だった。
その1年もコレで終わり。
もう開けたんだ。
既に新しい時が動き出している。。。

・・・

そんなコトを思い返しながらも、今俺の乗っている新幹線は雪の世界を通り抜け、次第に世も明けてきた。
長かった大晦日の一晩が終わる。
今名古屋を過ぎた辺りだ。左前方に、あの時の炎よりも神々しく濃ゆくオレンジ色に輝く太陽と、それを周りで引き立てる水色の空と白濁色の薄く引き延ばされた雲が上手く調和して、この新しい1年の始まりを象徴してくれている。

素晴らしい年明けだった。
最高の始まりだった。
そしてこの”年”、俺らは新しい領域へ踏み込み生きていくことになる。
もうたっぷり充電した。
後戻りなんてできない。
一生懸命この新しい1年を生き抜き、また1年後、友人達とこんな年越しを迎えたい。

もう世界は明るくなってきた。
今日は、晴れだ。

  

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