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February 20, 2005

超越的存在としてのヒトと生き方

・・・パーソンズの考えでは,新教神学者ティリッヒのいう「究極的関心」やウェーバーの「意味の問題」は,「どうにも説明し尽せない人間の究極的属性」であり,人間の行為に内在的なものである.・・・「人間の条件パラダイム」で前提されている観念は,人間を生存の必然(要)から象徴的に超越しうる存在であると同時に,生物有機体としての必然に究極的に条件づけられたものとみるアレントの「人間の条件」の考えに通ずるものがあるが,パーソンズが強い共感を寄せたのはマルローの同名の小説のモチーフであった.(中,機能主義の社会理論,1986)

人間はもはや生きるためだけに生きる存在ではない.

どう生きるか,何のために生きるか,何故それをするか.
人間の「行為」はもはや超越的存在としての「意味」を代替している.

ヒトは,自分の存在を賭けて戦ってるんだと思う.

そんな”生き方”は,ヒトが「社会」を作り出した瞬間に運命付けられていたんだろう.

いくらその根源欲求が超個人的な日常エゴイズムに基づいていたとしても,
目的達成のために他者と関係性を築き共同で欲求充足へ向けて動き出したその時に,
協業や分業といった作業形態を生み出し全体に対する”役割”概念を認めてしまったヒトは,
もはや個人で成り立たず全体に位置付けられての自身の存在でしか自身を判断できなくなってしまった.

だから,”生きる”ということは多分,自分の存在をかけて全体社会に挑んでいることなんだと思う.

だからこそヒトは,当社会に属する他者に褒められると嬉しいし,自身の言動を否定されるとココロが傷つく.

それだけでヒトは生きる活力を生み出すことができるし,逆にそれだけでヒトは命の価値を見出せなくなってしまうこともある.

だから,ヒトと接したりヒトと何かを成すということはそれだけ大事なコトなんだと思う.
「社会」で”生きて”いくためにヒトが生み出した文化や規律や規範.
これらの意味をもいちど見直して,当たり前に流れてる日常を当たり前に流さずに,ヒトに気を配って生きていきたいと思う.

  

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